1985年9月
  FUNKY 2回目の
  北海道ツーリングが
  敢行さ
、6人のライダ-が
  北海道の大地を駈け抜け
  たのである。




            
January 2004  Report by Ryuta
    
 1985年の北海道はFUNKY2回目の北海道で前の年は金が無くて道南だけを周ってお茶を濁したが、1985年の北海道はFUNKYの北海道への本格的チャレンジ元年となったツーリングであった。今考えれば知らないとは恐ろしい事で、結構無謀なスケジュールで走り抜けた3泊4日(実質2日半)の北海道でもあった。

 予定コースは前年没になったコースの焼き直しであったが、北海道で1日どれだけの距離を走れるものなのかも知らず、地図を見て行きたい所に印を付けそれを最短の道で結んでコースを決めた。当然、予定通りに行くわけもなく予定変更を強いられたが、しかしそれはそれで楽しかった。私の中では今までFUNKYで行った19回の北海道ツーリング中、最も思い出に残るツーリングの一つである。

 もう20年近く前のツーリングであるが、当時の資料を基に私の記憶の断片を繋ぎ合わせてレポートを書いてみようと思う。




9月14日(土)
秋田発14:00⇒五城目米内沢比内大湯田子三戸八戸フェリーターミナル発21:30

9月15日(日)
苫小牧フェリーターミナル着6:30富川日高日勝峠清水然別湖⇒糠平上士幌足寄オンネトー
阿寒湖弟子屈摩周湖小清水⇒根北峠標津尾岱沼白鳥台 着18:00 民宿白鳥屋 

9月16日(月)振替え祝日
白鳥台 発7:10⇒尾岱沼⇒中春別⇒上西春別⇒虹別⇒弟子屈⇒阿寒湖⇒足寄⇒池田⇒忠類⇒広尾⇒襟裳岬⇒
浦河⇒門別⇒苫小牧⇒登別⇒室蘭フェリーターミナル 着19:20 発19:45

9月17日(火)
八戸フェリーターミナル 着3:45⇒三戸⇒田子⇒大湯⇒比内⇒米内沢⇒五城目⇒秋田着8:15

3泊4日 全走行距離 1,622km

参加メンバー集合写真
♂5名 ♀1名
その内バイクで行く北海道初心者3名
前左からT氏、Y氏、Fone氏、後左からS氏、O嬢、Ryutaであります。

  当時、会社の多くやお役所は、土曜日が半ドン(仕事は正午まで)であった。そのため今回のツーリングは、土曜日の午後に秋田を出発し日曜日と祝日(敬老の日の振替休日の月曜日)を利用して、会社が始る火曜日の朝まで帰って来るという休日を最大限に利用したスケジュールであった。そのため今回のツーリングには勤め人が多く参加する事になった。

 ここで今回のツーリング参加メンバーを紹介しておこう。
0嬢   RZ250RR(ブルー)
初めてのバイクRZに乗って早1年、この1年(実質7ヶ月)で10,00kmを走ってしまった女性。右コーナーを苦手としていた。
F氏    RZ250RR(レッド
今回の参加者唯一の大学生。RZ350からRZ250RRに乗り換えた2サイクル好き?
S氏   GPZ400F(ブラック)
私の学校の後輩でFUNKY創設時からのメンバー。学生の頃、HONDAのベンリイCV92(125ccドカバイ)で北海道を周った経験を持つ。
Y氏   RZ250RR(ブルー)
XS250EからRZの乗り換えたY氏は、走りに安定感が出て来た26歳。昨年に続き2年連続の北海道である。
T氏   RZ250RR(レッド)
原付の HONDA R&P からRZに乗り換え5,000km弱。初めての北海道ツーリングに最初は不安は有ったと思うが、日に日にステップアップした走りを見せた。
Ryuta RZV500R
今回の参加車の中で最大排気量のRZVに乗り、北海道の案内役を務めるが北海道はまだ5回目(バイクでは3回目)で、北海道の事はよく分かってはいなかった。

 こうして見ると6台中5台が2サイクルで4台がRZ250RRである。当時2サイクルの性能アップが著しく、RZ350と新型のRZ250RRの馬力が45PSと同じだったりした。

 RZ250RR(乾燥147kg、45PS)は、重く馬力も大した事の無いRZV500R(乾燥177kg、国内馬力64PS)と比較しても、軽快なハンドリングで勝り150km/h位までは加速も大差なかった。

 私がRZV500Rで一番印象に残っているのは、低速トルクの大きさで、法定速度内での走行では殆んどアクセルが開けないで走れるのが、さすがに大排気量車と感心したものだった。ハンドリングはフロント16インチの軽いハンドリングを無理矢理安定感を出そうとしていて中途半端な感じが好きになれなかった。

大湯温泉の先に在るレストランの前で休憩
このレストランは今はもう無い。当時この近辺に在った休憩場所は殆んど残っていない。





当時の八戸⇒苫小牧間の東日本フェリー乗船券
現在の運賃が当時より140円しか上がってない事に驚く。東日本フェリーが会社更生法を申請したのも分かるような気がする。
9月14日(土)14:00 全員が店の前に集合し出発の写真を撮り(写真を撮った人は、確かT氏の奥様だったと思う。)秋田を出発する。国道7号から国道285号に入り先ずは十和田を目指す。当時の国道285号は、改修工事が始ったばかりで曲りくねった細い道が続き、今と比べると時間が掛かったのを思い出した。ニー・パー・ゴーの改修工事も昨年ようやく完了した?模様なので、20年掛かってようやく完成?

 比内、大湯を抜け田子から国道4号に出てドライブイン(今では死語?)で夕食を取る。そこのオバさんの言葉が独特の南部弁で何を言っているのか理解不能であった。近年も食堂に入る機会があったが、解読不能な言葉は聞かれなくなった。あの時に聞いた南部弁が懐かし。

 無事、苫小牧行きフェリーに乗った我々であったが、連休前のフェリーとあって船内は人で満杯であった。この八戸21:30発(現在は22:00発)の東日本フェリーは、現在でも休日前日は混雑しており出来れば乗りたくないフェリーである。あまりの混雑にフェリー側が普通はトラックのドライバーが使用するドライバーズルーム(2段ベッド)をバイクライダー(ドライバーズルームだからドライバーに限るらしい。)に開放する事になり、我々に声を掛けて来た。

 ラッキー!? と我々は喜んだのだが、一つ問題が有った。ドライバーズルームに入れるのは男性だけだったのである。O嬢を男に仕立て上げるのはそう難しい事ではないと思われたが、この際O嬢には申し訳ないが超満員状態の2等客室で我慢してもらう事になった。

 しかし、O嬢を2等客室に1人残すのは忍びないと1人のフェミニストが立ち上がった。自分も2等客室に残ると申し出たその人の名は、Y氏であった。O嬢が混雑した客室で変な男どもにからかわれでもしたら大変と心配(その心配は無用と思われたが?)したかどうかは知らないが、結局O嬢とY氏が2等客室に残る事になった。

 2等客室に2人を残し、あとの4人は静かでユッタリしたベッドで眠りに着く事が出来たのである。しかし、2等客室の2人には過酷な状況が待っていた。隣に居た八戸の女性3人連れ(母、娘、孫娘)と知り合い話が弾んだ(Y氏は特におばあちゃんと話し込んだようだ。)ようだが、電気が消えて皆さん横になろうとするとスペースが足りなくなり、結局Y氏は1人通路で朝を迎える事になったという。Y氏が2等客室に残った意味は無かったと思われる。

 後で聞いた話だが、O嬢とY氏はお揃いの革ツナギ(O嬢は借り物)を着ていた為、八戸の女性達は二人を新婚旅行中と思っていたらしい。Y氏はまんざらでも無かった様だが、O嬢は即座に否定したとかしなかったとか。O嬢、Y氏と新婚カップルに見られた事がショックであった模様である?

左側が八戸の孫娘さん。中と右側の2人が新婚旅行中のお二人さん?


苫小牧フェリーターミナルに接岸記念写真を撮る。新婚さんも並んで・・・・?
9月15日(日) 私はベッドで爽やかな朝を向かえる事が出来たが、2等客室の2人は熟睡する事が出来ず寝不足のまま朝を迎えたようだ。デッキに出て見ると天気は快晴で、今日一日雨の心配は無さそうである。

 フェリーは 6:20 苫小牧フェリーターミナル接岸。6:30 我々は北海道の大地に降り立ったのである。・・・と思ったら、Y氏が降りて来ない。

 暫くしてY氏がRZを押してフェリーから降りて来た。エンジンがどうしても掛からないのだと言う。私が点検しようとした時、隣に居たO嬢が言った。
  「キルスィッチがOFFになってる・・・。」
Y氏のした事が。Y氏、ベテランらしからぬミスティークでありました。しかし、この事はその後Y氏を襲うトラブルの序章でしかなかったのである。



 Y氏のトラブルも解決して我々は苫小牧から国道235号で門別方向に走り、富川から国道237号に入り日高で休憩を取った。天気が良く放射冷却のためか北海道の朝は寒かったが、昨日の八戸の夜の方がもっと寒かった。


     T氏、感動の北海道に上陸を果たす。

   日高で休憩するが、Y氏にトラブルが・・・。


      日勝峠の展望台前は工事中。


    平凡なる名作 これが北海道!!
 Y氏にまたまたトラブル発生。Y氏、バイクを降りるなり私に水温計が動かないと訴えてくる。点検して見るとシリンダヘッドに付いているセンサーの配線が外れていた。しかし、配線は見えいるがカウルが邪魔になって私の手では奥まで手が入らない。人間それぞれ何か使える物を持っているもので、私なら入るかもしれないとO嬢が申し出る。そう言えばO嬢、身長は160cm以上あるのだが手足のサイズが小さいのを思い出した。O嬢の特殊な才能によりY氏の2つ目のトラブルは解消されたのであった。

 休憩後、今度は国道274号には入り日勝峠に向かう。当時日勝峠は拡幅工事が行われていたが、今の様に登坂車線が少なくトンネル付近でよく渋滞していた。

 道路脇にバイクを止め展望台の方に歩いて行くと、我々の目に十勝平野の雄大な景色が飛び込んできた。初めて見る北海道の雄大さに一同しばし景色に見入ってしまった。結構インパクトのある景色だった記憶が有る。

 記念写真を撮った後、峠を下り清水町から鹿追町に出て然別湖に向かう。鹿追町には自衛隊の駐屯地が在って、然別湖に行く途中には道を横切ってコンクリートの道が造られていて、戦車等の重い車両が演習場まで移動するのに使用するようだ。北海道の自衛隊はやる事が違う?

           天気は最高!!

 当時、然別湖に行く道は扇ケ原展望台までは広く整備されていたが、それから先は狭く曲りくねった道が続いていた。今も一部残っているが、車同士だと交差が難しい所が殆んどであった。しかし、バイクの我々は問題無く10時過ぎ然別湖に到着する。ここで朝食兼昼食を取る事にした。


Y氏、O嬢は
イワナ蒲焼定食











F氏は
鹿肉鉄板焼定食






T氏は
鹿肉鉄板焼定食






S氏は
鹿肉鉄板焼定食







2003年の箸袋
昨年訪れた時の物。店内も改装されて綺麗になっていた。






1985年の箸袋





我々は湖畔に建つ然別湖畔温泉ホテルに入る。私は以前ここで食事をした事があって、その時はオショロコマの刺身を食べた。今回は鹿肉の鉄板焼定食を注文する。私の他にFone氏、T氏、S氏が鹿肉を、Y氏とO嬢がイワナの蒲焼定食(オショロコマであったかは不明。)を注文する。イワナの蒲焼定食の味は分からないが、鹿肉は一度食べればよい味だったと記憶している。


 
昨年(2003年)久しぶりに然別湖畔温泉ホテルで食事したが、然別湖のオショロコマは漁が制限されていて食べる事が出来なかった。桟橋からは沢山のオショロコマが泳いでいるのが見えるが、乱獲で資源保護をしているとの事である。もうオショロコマを食べる事は出来ないのであろうか?十和田湖のヒメマスにも似た刺身の味は <美味しい!!> かったとの記憶がある。

 食後、湖畔に出て休憩を取る。お腹が膨れたO嬢を、昨晩の寝不足の為か睡魔が襲う。ベンチで少し横になるが、この後もO嬢の睡魔との戦いは続く事になる。


フェリーの中で殆んど眠られなかった為、食後O嬢を眠気が襲う。数分間横になった程度では解消されるはずも無かった。















湖岸にはオショロコマが群れをなして泳いでいる。 右端の人浮いてます。

Fone氏が片手で撮影したRyutaの後姿。見事なリーンズアウトである。

初心者に多く見られるスタイルで、私も立派な初心者であったのかよく分かる。










糠平からダムサイトの道を走る。撮影Fone氏。
 然別湖の看板の前で写真を撮り糠平に向かう。然別湖から糠平方向に走ったのはこの時が最初で最後であった。その後毎年のようにこの道を走る事になるのだが、全て反対方向である。

 然別湖から幌加峠を越えて糠平に抜ける道は原生林の中を走るワインディングロードで、FUNKYでは定番のコースなのだが、この時(1985年)は幌加峠付近が砂利道(工事中)であった。

 その砂利道が楽しく走っていた私の目の前に突然現れた。私は一瞬ブレーキを掛けたが減速し切れず、ブレーキを開放してそのまま結構なスピードに砂利道に突っ込んでしまった。何とか転倒は免れたものの危なかった。

 しかし、私よりもっと肝を冷やした人物がいた。片手で前のバイクを撮影しながら走っていたF氏は、片手運転のまま砂利道に突っ込んでしまった。カメラを離すわけにもいかず、必死にハンドルを抑えて何とか事無きを得る。

 最近は工事個所の手前から予告の看板(北海道は特に徹底している。)が何枚も出ているのでこんな体験は少なくなったが、当時の北海道ではよく有る事であった。

 サロベツ原野の海岸線沿いの長い直線を走っていて、小さなウネリの先から砂利道なんて事があって、150以上で砂利道に突っ込んだ事もあった。北海道の砂利道は比較的走り易いのが幸いしたが、これが道路工事の砂利の深い道だったら転倒は免れなかっただろう。

 何れにしても目で見えていない所を走る時は、何が有っても対応出来るようスピードを落として進入する事が肝要である。

 幌加峠の細かい下りのワインディングをサイドカーと絡みながら駆け下りて糠平に出る。今だったらここから三国峠を越えて大雪ダムに出る道を走るのだが、当時は糠平から先は砂利道でバイクは車の砂埃を浴びて真っ白になって走っていたものだ。

オンネトー湖は ただの水たまりである。
 コメント by O嬢



S氏、O嬢の肩に遠慮気味に手を掛ける。私がO嬢の肩に男性が手を掛けた写真を撮ったのは、後にも先にもこの1枚かもしれないな? 逆の状態の写真は沢山有ったと思うけど。
我々は上士幌から足寄に出てオンネトーに向かった。



上士幌?の交差点で。
北海道のアベレージスピードが速く、ヘルメットが浮いてきて苦労するO嬢。

O嬢、小さいのは手足だけでなく頭も小さかった。これが丁度よいと店員(私ではない。)から勧められ初めて買ったヘルメット(Sサイズ55〜56cm)は、53cmの頭には大きかった。風圧でヘルメットが浮いてきて前が見え難くなったのだが、本土では経験した事の無いスピードであったのだろう。






 足寄から阿寒に向かう道は良く整備されていて快適に走る。皆さん快適過ぎてスピードを出すのか白バイのお世話になっている車も見うけられた。この道の足寄よりは、昔も今も白バイやパトカーが多く出没するので皆さん気を付けて下さい。

 あまりにも快適過ぎる道に、O嬢が居眠り運転をしてしまったようだ。先頭の私は知らなかったが、O嬢明らかに蛇行運転をしていたと言う。それでも何とかオンネトーに辿り着いたO嬢であったが、ヘルメットを脱いだその顔は明らかに寝起きの顔であり、顔の下半分は排気煙で黒ずんでいた。

 13:00過ぎオンネトーに着いた我々は、記念写真を撮り休憩を取っていた。そこに1人の男性が声を掛けて来た。それは阿寒湖畔のアイヌコタンに在る 喫茶 <宇宙人> の宣伝マンであるようで、我々に喫茶店のパンフレットを渡して去っていった。このパンフレットが後に役に立つ事になる。

霧で有名な摩周湖であったが、霧の微塵の無かった。


私が撮った写真だと思うが、右から大仏さんが出て来るし、Y氏は半分写っていないし、この時の展望台は観光客で混雑していて写真を撮るが大変だったのを覚えている。


摩周湖の景色に満足げな表情で写真に写るT氏。


何故か表情が冴えないY氏。寝不足?
 オンネトーを出て阿寒湖、弟子屈を素通りし、摩周湖の第一展望台に到着したのは15:00過ぎ。遅い昼食と言うよりは、オヤツの軽食を取る。各自ラーメンやジャガイモを食べたりコーヒーを飲んだりする。

 予定ではここから知床を回ってから尾岱沼に泊まる事にしていたが、予定通りに走れば200km近く有る。今の時刻は16:00、18:00に宿に着くとすると2時間で200km走らなければならない。これは物理的に絶対無理で知床は諦める事になった。

 それよりも何よりも私は今日の宿を決めなければならなかった。今の私だったら考えられない事だが、6人の大所帯にもかかわらず私は宿を予約していなかった。場所は尾岱沼と決めていたので宿の電話番号はリストアップしていたが、宿が空いている補償は無かったわけで、今考えると無謀とも言える計画であった。

 尾岱沼の宿に電話を掛けて見るが、一軒目は満室、二軒目は電話が通じなかった。ようやく三軒目に空席が有り、OKをもらったところで電話が切れてしまった。直ぐに電話を掛け直すが電話が通じなかった。行けば何とかなるだろうという希望的観測のもと我々は尾岱沼に向かう事になったのである。

 宿は決った?が尾岱沼までのコースが決っていなかった。今考えれば、最短で尾岱沼に行くには摩周湖から一旦弟子屈に戻り、中標津から標津に出るのがベストの選択だと思うのだが、その時の私はそうは考えなかった。

 知床に行く計画だった為、私は知床半島付近の地図を見ていた。そして知床半島の付根を横断する国道244号を見つけた。ここを通れば尾岱沼まで約100kmの距離であり、2時間もあれば宿に着けると踏んだのである。この決定がその後FUNKYお約束コースとなる根北峠の発見に繋がったのである。

 展望台の駐車場を歩いていて全くの偶然だが、店のお客さんで時々一緒に走っているK嬢に会ってしまった。我々と同時期にK嬢も北海道に行くとは聞いていたが、待ち合わせたわけでもなく予定も知らなかったのにK嬢が目の前に現れた時、私は本当に驚いた。こんな偶然って、旅には起こるものなんだと言う事をその時知ったのである。その後、そんな偶然が北海道では時々起きている。

 K嬢とゆっくり話す時間は我々には無く、K嬢は今日阿寒湖のホテルに泊まると言う事なので、明日の朝9:30に阿寒湖畔のアイヌコタン(オンネトーでもらったパンフレットで場所が分かっていた為)で待ち合わせる事にして、我々は摩周湖を出発した。




小清水町から斜里町の越川まで地図上では殆んど直線(約23km)の道。正面の山の麓まで直線は続いている。
 第三展望台の前を通過して川湯に出て野上峠を越え小清水から斜里に向かう。今の私だったら清里に出て斜里に向かったのだが、何しろその時の私は北海道初心者であったから幹線道路から離れたくなかった。



 長い直線を走って(直線と言っても地図上の事で、高低差が有るので長いとは思えなかったが。)国道244号越川に出て標津に向かう。




 山は近くなって来たが、まだ直線は終わらない。

私は最後尾でカメラ撮影していたが、徐々にペースが上がって撮影どころででは無くなってしまった。従って撮った写真はこの1枚だけ。20回近く根北峠を走っているが、写真として残っているのはこの1枚だけかな。だって根北峠を走る時、写真なんか撮ってる暇はないんです。
 私はこの時カメラを首から下げて写真を写しながら最後尾を走っていた。道路にハミ禁の黄線が出て来てそれが消えた辺りから先頭のスピードが一気に上がりそれにつられて各車スピードアップする。私も写真を撮っている状況では無くなり最後尾からの追い上げを始めた。

 しかし、私の首にはカメラがぶら下がっておりコーナーでカメラが気になって思うようにスピードを上げられない。大排気量を生かして直線でスピードを稼ぎ先頭を追い上げる。

 この時の状況をF氏が書いたコメントが残っているのでご紹介しよう。


 写真を撮るためF氏、S氏、T氏、O嬢、Y氏、Ryutaの順で走行していたが最後にワインディングが出現、憂さ晴らしのFone氏は全開走行に移り後方をブッちぎり頂上で待つ。すると最後尾より追い上げてきたRyuta氏が目の前を通過したので ここからバトルが始った。コーナーは無理せず直線で200で飛ばすRZV500とフレームのよじれをものともせず140コーナリングを実行するRZ250RRの対決は 全くの互角で まさしく北海道にふさわしい走りであった。 なおそのころ、後方ではT氏が全員に抜き去られるという事件があったもようである。
                               by F氏


 この文書から分かるように、F氏はこの時の走りに大変満足し北海道の大地を堪能していたのが見て取れる。

 しかし、彼はその時私の首からカメラがぶら下がっていた事を知らなかった。私はコーナーで無理をしない走りをしていたのではなく、カメラが気になってコーナーではスピードを上げられなかったのである。

 そして二番手を走っていたS氏のGPZ400Fも問題を抱えていた。本来であればRZなど寄せ付けないパフォーマンスが有るはずのS氏とGPZのパッケージであったが、このGPZは120位のコーナーリングでハンドルが振れるという持病を持っていた。高速コーナーが連続するこの峠でこれは致命的な弱点であった。S氏は前を追撃する事は諦めざるをえなかったのである。

 その時は夢中で走ってしまった峠が根北峠であったわけで、根北峠はその時からFUNKYに取って、北海道に数ある峠の中で忘れられない峠となったのである。

 1985年9月15日(日)はFUNKYが初めて根北峠を走った記念すべき日となった。

 峠を越えて長い直線(この直線は平なので見通しが利く)に出ると、地平線の上に海の水平線が見えている。その海に向かって真っ直な道が伸びていた。我々は日が暮れ始めた夕闇の中に吸い込まれて行く様であった。

 海に出て右折、左手の海の向こうには国後島が見えている。標津を通過すると尾岱沼はもう直ぐ。17:50尾岱沼に到着する。GSで今日の 宿 白鳥屋 の場所を聞くと宿はここからもう少し先の白鳥台に在ると言う。気を取り直して白鳥台に向かう。

 別海北方展望塔が有る場所に白鳥屋の看板を見付け、2つ有った建物の手前に入り予約した者だと告げたが、うちは営業していないと言われてしまった。しかし、お隣は営業していると教えてくれた。外に出て看板を確認すると 民宿スワン と書かれていた。

 そして隣の看板を見てみると、そこには白鳥屋と書かれていた。中に入ると食堂のテーブルの上には6人分の食事が用意されてた。その時外は闇に包まれており一軒目で断られた時は私も焦ったが、皆さん予定の宿に落ち着く事が出来てホッとした事を覚えている。


 荷物をバイクから下ろし、部屋に運び上げ先ずは食事を取る。その後、風呂に入る事になった。レディーファーストと言う事でO嬢が一番風呂に入る。O嬢、2日分の汚れは相当なものであったらしく結構な長湯であった。その後男性陣も風呂に入り全員リフレッシュ後畳の上でマッタリとする。ヤッパ日本人は畳でしょ。フェリーの鉄板の上は落ち着かない。この日は皆さんお疲れで早く寝たような気がする。

通路ではなく布団の上でぐっすりと寝たY氏、爽やかに目覚める?


Y氏の気分も回復した?


この2人にその手の趣味は無い?
9月16日(月) 昨晩早く寝たせいか6時前には皆さん目を覚ます。(強制的) 空は曇っており昨日の天気は望めないようで、雨が少し心配だ。今日の予定としては、まず9:30までに阿寒湖に着かなければならない。ここから阿寒湖までは約120kmあり2時間以上掛かると思われる。その為には7時過ぎにはここを出発したい。朝食の時間を早くしてもらって、出発の支度をする。

昨晩は暗くて分からなかったが、窓からは海が見えていて、ここは白鳥の飛来地として有名であるらしい。




 宿を7:10に出てまず尾岱沼まで戻り左折して中春別に出る。そこから国道272号に出る道道を走る。周りはどこまでも続く牧草地で北海道の広さを体感できる道だった。



宿 7:10出発
 心配していた雨がポツポツと落ちてきた。バイクを路肩に止めて雨具を着ようとしたが、皆さんのご意見はもう少し様子を見ようと言う事でそのまま走り出す。バイクの走行写真撮影を予定していたが、雨は段々強くなりそれどころではなくなり、結局皆さんすっかり濡れてから雨具を着る事になる。雨具は降り始めたら直ぐに着るのが鉄則。濡れてから着てもあまり意味が無い。

 雨は次第に本格的になり、我々はドシャ降りの中を80〜120のペースで走る。

 国道272号から国道243号に入り西春別の赤信号で止まった時だった。我々の目の前に稲妻が走った。直ぐ前の家の奥に光が走ったと思った瞬間、ドガーンという大音響が辺りに響き渡った。それは私がこの年になるまでに見た落雷の中で、最も近い雷だった。

 皆さん(私を含めて)一瞬放心状態となり、各人恐怖の表情を見せる。  怖ぇー!! 
 雷のド迫力に圧倒された我々が、信号が変わった瞬間その場から脱兎のごとく走り去ったのは言うまでもない。

 この雷事件以降、我々(先頭の私)のペースは更にアップ(無意識に雷の恐怖から逃れようとしていたのかもしれない。)して雷雨特有のドシャ降りの中を100以上のペースで走っていた。

 当時まだスパイクタイヤの使用が認められていて、路面にはスパイクで削られた轍が深く刻まれており、轍の水溜りが我々の走行を悩ませた。

 対向車が上げる水しぶきは、まるで水のカーテンの様になって我々を襲ってくるし、追い越しの為対向車線に出ると轍を横切ることになり、その度にタイヤのスリップに悩まされた。

 そんな状況下の走行で、私は雨の時の轍の走り方を学んだ。轍はなるべく直角に近い角度で横断し轍の中を走る時間を出来るだけ短くする。アクセルは一定にして加速も減速もしないで轍を通過する。普通は轍を外して走る事等である。

 雷雨の中でも全員が何かに取り付かれたように集中して走れたのは、先ほどの雷の影響が有ったのかもしれない。

 弟子屈を過ぎた辺りから雨が上がってきて、雨具を脱ぐ。雨は前線による雨であったようで、我々は前線を突き抜けてしまったようだ。北海道では前線の動きが結構速く、前線に向かって東から西に走る時は、1〜3時間で雨が上がる場合がある。

阿寒湖畔のアイヌコタンに着くとK嬢が直ぐに登場する。


Y氏のRZの配線がまた外れてO嬢の魔法の手で修理が行われた。そのケツにキックを入れるお茶目なT氏。


女性二人だけで写真を撮るつもりだったが邪魔者が登場!


そして究極が登場! K嬢、そこまで怖がらなくても?
 阿寒湖半のアイヌコタンに到着したのは9:10頃。白鳥台から125kmの距離を2時間で走った。まだ雨中走行経験の少ないO嬢、T氏の健闘が光った。今回の経験が自信となってきっと後に役立つと確信している。

 早速K嬢が登場する。彼女は友人達とバイクで北海道を回っているとの事だが、我々と大きく異なるのは宿泊している宿のグレード。彼女か昨晩泊まった宿は、阿寒グランドホテルと言う高そうなホテル。さすがに本社が東京に在る会社に勤めるOLは違う?

 Y氏の水温計の配線がまた外れO嬢がまた嵌める。差込が甘くなっているようだが、ここでカウルを外して修理する時間は無いし、外れても走行には支障は無いのでこのまま行く事にする。

 写真を撮ったりお土産屋さんを見たりしてから、オンネトーでパンフレットを貰った 喫茶 宇宙人 に行きコーヒーを飲む。店のマスターが私に似ているとか、カウンターの中で働いていた女の子が秋田県能代市出身だとか話題は豊富であったが、そんな話に花を咲かせる時間は我々には無かった。



O嬢のコメント 
後のトーテンポールは中山さんに似てる。色がソックリ

 我々は室蘭19:45発の八戸行きのフェリーに乗らなければならない。ここから室蘭まで予定コースでは450kmはあると思われる。今の時間は10:20だから9時間で行かなければならない。単純計算で平均時速は50km/hである。

 当時の私は50km/h平均なら楽勝と踏んでいたのだが、今の私だったらそうは考えなかったと思う。走るコースが道北や道東の車の少ない所だったら平均100でも可能だと思うが、これから行く予定のコースは町が点在する交通量の多い地域が多く、平均40km/hがいいところだと考える。

 考えていても時間を消費するだけなので、K嬢と秋田での再会を約束して店を出る。これからの事で頭いっぱいだったのか、私はコーヒー代を払わないで店を出てしまった。慌て店に戻ってコーヒー代を払い阿寒湖を後にする。


 足寄の手前では白バイに気を付けながら先を急ぎ、足寄からワインで有名な池田町に出て休憩を取る。しかし、我々にワイン城を見学する時間は無かった。ここで我々は選択を迫られる。

 その時の時刻は正午を回ったばかりで、フェリーが出るまであと7時間半であった。予定通り襟裳岬を周って行くと距離は約350kmあり、平均時速47km/hと時間的に厳しい状況は変わっていなかった。

 ここから国道37号で帯広を通り昨日越えた日勝峠で日高に出れば、楽に室蘭に着ける事は分かっていた。しかし、そのコースには観るべき所も無く昨日走った所が殆んどで、楽しくは無さそうだ。

 皆さんに意見を出してもらったが、予定通りに行くと言う意見と日勝峠周りで行くと言う意見の両方あった。最終的には頑張って予定通り襟裳岬を周って行く事を私が決定する。初心者もいて時間的に厳しい状況になる事は予想されたが、このまま移動するだけで北海道を後にしたくなかったのと、何も無いと言われる襟裳岬を見てみたかったのが決めた理由である。

 しかし、予想していた通り?この決断が我々に後々過酷な運命をもたらす事になるのだが、そんな事になるとも知らず我々はまずは襟裳岬を目指す。
 幕別から虫類に抜ける道は、道の周りには家も無く人も牛も車さえも殆んど見ることが道であった。あるの真っ直ぐ伸びた道と原生林だけ。ついついスピードメーターの針は上を向いていく。今考えれば、車も走っていないのだら警察もいる筈も無いのだが、北海道初心者であったその時の私は、警察の陰におびえてスピードを出し切れていなかった。

 虫類に出て広尾に向かったのだが、先頭を走っていた私は後からの知らせでY氏のRZにトラブルが起きた事を知る。戻って見ると、チェンジペダルを止めているボルトが弛んで外れペダルがぶら下がっていた。幸いにも脱落したボルトを締め付ける事で修理は完了したが、何故かトラブルはY氏だけに集中する?

 広尾のパチンコ店でトイレを借りて休憩を取る。当時田舎に行くと利用出来るトイレが少なく苦労したものだ。今はコンビニや道の駅が北海道の何処にでも有ってそんな苦労は少なくなったが。

 休憩後、黄金道路を走って襟裳岬を目指す。黄金で造るくらいお金が掛かったと言う黄金道路は、断崖絶壁の海っぺりを走っていた。その日は風が強く吹いていた為波の飛沫が道路まで飛んできていた。

 飛沫がヘルメットのシールド付着して白く乾き、前が見難くなってしまう。前が見えない為、シールドを手で擦ったら益々前が見えなくなり、最後はシールドを上げて走る事になってしまった。潮がシールドに付着した時、絶対に擦ってはいけない事を私はその時に学んだ。

 そして何も無くて風が強く吹く襟裳岬に着いたのが、14:30。ここで遅い昼食のラーメンを食べ、襟裳岬の看板の前で写真を撮り、15:10に襟裳岬を出発する。ここから室蘭までは260km。残り時間は4時間と少々。平均スピードは60km/hに跳ね上がった。

 襟裳から苫小牧までの国道235号には多くの町が点在し道は狭くハミ禁の個所が多かった。交通量も結構有ってアベレージ60km/hを維持するのは至難の業であった。おまけに途中お祭の所があって暫く足止めを食ったりもした。

 浦河町でガソリンとオイルを給油して最後の走りに備える。浦河を出たのが16:20.室蘭まで200km弱。平均スピードはまたまた跳ね上がって65km/hになっていた。

 しかし実際はこんな計算なんかどうでも良かった。室蘭にフェリーの出港時間まで到着するというケツは決っているわけで、何が何でも出港の時間まで着くという各自の意志が大事だった。平均スピードが70km/hを越えると絶望的だが、可能性が有る限りそれにチャレンジするしかなかったのである。

 我々に浦河から室蘭まで休憩する時間など無かった。ここからが今考えても神がかり的な、正にFUNKYな走りが展開される事になるのである。

 苫小牧の手前まで来ると連休最終日の夕方のせいか車が渋滞していて動かない。我々に止まる事は許されず、私はかまわず車列の左側を突き進む。信号に捕まれば脇を通って先頭に出てフル加速。それの繰り返しで苫小牧の町を通過する。

 苫小牧を過ぎて室蘭までは70km強、時刻は18:00を回っていた。今ならば高速も有るし、国道36号も整備されて4車線の所が多いが、当時は殆んどが2車線の国道であった。

 日が落ちて暗くなっても我々の走りは変わらなかった。変わらないどころか反対に過激になっていった。前にいる車は、右から左からかまわず追い越し、黄色線も我々の目には入らずただ前に突き進む。

 その時私の頭にあったのは時間ではなく、目の前にいる車の前に出る事だけだった。私の後でも数々のドラマは展開されていたようで、突進するバイクをダンプの運ちゃんが怒鳴りつける事件も有った模様である。私は出来るだけ車の皆さんに迷惑を掛けないよう走っていたので、その様な事は無かった?のだが。

 登別の手前まで来て後方から救急車がサイレンを鳴らして近づいて来た。もしかしたらこれはラッキーな事かもしれない、と私は思った。「救急車の後に付いて走れば早く室蘭に着けるかもしれない。」ぞと・・・。

 私は救急車を先に行かせ、その後に付いて走る事にした。その時、救急車のドライバーは決して80km/h以上のスピードは出そうとしない事を私は知った。その為、先を急ぐ我々は注意していないと救急車の前に出てしまそうになる。すると救急車のスピーカーから前に出ない様に注意を受けてしまった。

 救急車を先導して走るわけにもいかず、我々はすごすごと下がってまた救急車の後ろに着く。そんなこんなで室蘭の市内に入ると救急車は我々の前から消えていき、先導車がいなくなってしまった。

 その時の私は室蘭のフェリー乗り場に行くのが初めてで、道路標示だけが頼りであった。道を間違えたらフェリーに遅れてしまうと結構プレッシャーが掛かっていた。

 いつの間にか自動車専用道に入ってしまい、益々不安が増幅して行く。室蘭港の表示を見付け右折すると室蘭駅の前に出るがフェリー乗り場の看板は無い。そのまま進むとフェリーターミナルの看板を発見、右折する。すると道の先に港が見え少し進むとフェリーが見えた。「ヤッター」 と思わずヘルメットの中で叫んでしまった。!

 急いでフェリー事務所に駆け込み乗船手続きをする。時計を見ると19:20であった。 間に合った・・・! と感動している暇は我々には無かった。

 乗船券を買い(フェリーの予約無し。)、お土産を買い、酒を買って(時間は無くても酒は買う。)フェリーに乗り込む。荷物を持って客室に行き寝る場所を確保する。そこでヤッと緊張が解けてドッと疲れが出る。

 気を取り直して皆で食堂に行き夕食となった。ビールで無事フェリーに乗れた事に乾杯する。この時のビールが美味かった。喉を通る泡のピリピリ感を今でも覚えている。

 食事の後、ロビーで一杯やりながら今回の北海道に話が弾む。なんと言っても話題の中心は浦河から室蘭までの走りだった。190kmを3時間、無休憩で激走してしまった。その走りは、今までの私のバイク人生の中でも秀逸の汚点として残るものであったが、これ以降の北海道ツーリング計画や実行において良い教訓となったのである。

 私の後方で起きていたダンプの運ちゃんに怒鳴られた話、前のバイクに着いて行く事しか考えていなかった話など、話は尽きなかったが明日の朝が早い事もあって早めに客室に戻った。

 客室は既に明かりが落ち暗くなっており、私も早々に眠りに着く事にする。八戸到着時刻は3:40である。

9月17日(火) 最終日17日の夜はまだ明けてはいなかったが、予定通りフェリーは八戸フェリーターミナルに接岸する。下船してフェリーの前にバイクを並べて記念写真を撮る。その間に他のバイクがフェリーターミナルを出て行くのが見えた。

 ここから秋田まで約220km。会社の始る前の8:00には秋田に着く予定だが、今の時刻は3:45。4時間15分で220km、平均時速52km/h弱、結構厳しいと予想される。

 撮影後、フェリーターミナルを出発する。夜明け前の八戸の街は車も殆んど走っておらず自然とスピードが上がる。暫く走ると前方で赤色灯が回っているのを発見、慌ててスピードを落とす。

 赤色灯の主はパトカーであった。そしてその横には我々より先に出て行ったバイクが止まっているではないか。どうもスピードオーバーで止められたみたいだ。我々が写真を撮らず最初に出発していれば、あそこに止まっているのは我々であったかもしれない。止められたライダーには誠に申し訳ないが、ラッキーと心の中で手を合わせパトカーの横を走り去った。我々にパトカーと戯れる時間は無いのだ。

 国道4号から国道104号に入る三戸町でそれは起きてしまった。夜はまだ明けておらず、折しも三戸付近は朝霧が深く立ち込めており見通しが利かない状況にあった。

 私は先頭で大型トラックの後ろに着いて走っていた。そろそろ国道104号の入口だなとは思っていたが、霧の為トラックに接近して走っていた私は、分岐の道路標示を見落としてしまった。

 最後尾を走っていたS氏はその事に気付きホーンを鳴らして入口の坂の下で我々が戻って来るのを待った。先頭の私はホーンの音でそれに気付きその先で停止する。



 私の目の前には反対車線の入口が見えていて、そこから104号に入れはUターンして戻るより簡単と判断した私は、4号を横断して104号に入った。当然私は後の全員が着いて来ているもと思っていた。

 しかしその時S氏は、坂の下で我々が戻って来るのを待っていたのだ。霧で辺りがよく見えない状況の中で暫く孤独の時間を過ごしたS氏は、あまりにも遅い我々に自分が置いて行かれた事を認識する? そしてS氏は独り秋田を目指したのであった。

 そんな事になっているとは思ってもいなかった私は、それこそ霧中で秋田を目指していた。50km位走った大湯の先で後が何だか騒がしくなっているのに気付き、私はバイクを道路脇に止めた。辺りは夜が明け、空は明るくなっていた。

 そこで最後尾を走っていたS氏の姿が見えない事を知らされる。5番手を走っていたライダーにどの辺から見えなくなったのか聞いたがよく分からないと言う。「気が付いたらいなかった。」と言うのだが。

 「気が付いたら直ぐに教えろよ。」と言いたかったが、霧の中の走行では前を見るだけで精一杯で、後続がいないのを気付かなかったとしても無理はない。何も無ければ来るだろうとの判断で、少し待って見る事にする。

 待つ事15分。丁度昇って来た太陽に照らされたS氏とヘッドライトを点けたGPZ400Fの姿が見えた。その時は、本当に「良かった。」と安堵した。それは耐久レースのゴールシーンの様に感動的なシーンであった。S氏に遅れた理由を聞き、事故では無かった事が分かり安心する。

 この事件で時間を少しロスしてしまったが、我々は秋田着8:00を目指しその場を出発する。

 比内から国道285号に入るが、我々には一つ心配事が有った。我々は北海道の浦河でガソリンを入れてから250km以上走行していて、リザーブに入っているバイクも有ったのである。

 しかし、時刻はまだ7:00前。開いてるGSが有るとも思えない。米内沢の街に入るがやはりGSは閉まっていた。何軒目かのGSの前を通った時、事務所の中のテレビが点いてるのが見えた。

 テレビが点いていると言う事は人がいる?戻ってGSに入って行くと人が出て来た。田舎のGSの方が朝早くからお客がいるみたいで開けていたようだ。 助かった!

 全員ガソリンを給油すると、T氏の20リットルタンクに19.6リットル入ってしまった。残り0.4リットルしかなかったとは、危なかった。

 これで後は秋田まで走るだけ。時刻は7:10.秋田までは60kmは有るが、時間が早いので何とかなると思ったのだが・・・。

 秋田市のはずれ追分まで来ると、通勤の渋滞に嵌ってしまった。今なら広域農道などで渋滞を避ける事も出来るが、この時はここを行くしかなかった。我々は北海道で培ったテクニックを駆使して渋滞を突き進む。

 会社に直行する者、家に直帰する者がいて、大町の店に帰って来たのは、O嬢、Fone氏そして私の3人だけで時刻は8:35であった。因みに会社に直行したT氏は、7分遅刻してしまったとか。

 本当に際どかった北海道ツーリングから無事帰還する事が出来た記念に3人で写真を撮り、今回のツーリングは全て終了した。 全走行距離 1,622kmであった。

 秋田〜八戸の440kmを差し引くと道内1,182kmで、2日目の走行距離は700km近かったと思われる。現在の高速化されたバイクを持ってしても、2日目のコースと距離は厳しいものと考えられる。知らないという事は強い!!


 今、この年の北海道ツーリングを振り返って見ると、このツーリングで体験した事が、FUNKYに多くの物を残してくれていると思う。未知なる大地北海道へのチャレンジでFUNKYは多くの事を学んできた。この年の北海道は、20年間続くFUNKY北海道チャレンジの元年とも言える意義のあるものだったと思うし、そして最もしんどかった北海道であった。


                おわり






国道336号でY氏をトラブルが襲う。






何度訪れても強風が吹いている襟裳岬。














帰りの室蘭⇒八戸フェリーの乗船券。7,600円と八戸〜苫小牧間と料金は同額。




疲労の表情を隠せないY氏と今日の走りを反省?する私。




T氏は余裕の表情。今回の北海道で一番ステップアップした人物。
S氏はベテランの走りを見せた。



北海道に満足した顔のF氏














八戸に着いて撮影したこの写真が我々に幸運をもたらした。





迷子になったS氏を待つ事15分。彼は朝日と共にやって来た。


米内沢のGSでガソリンを給油。このGSも現在(2003年)閉店としている?



F氏も来年の春卒業して秋田を去る事に。秋田で走った距離は4万km。今回の北海道は卒業検定ツーリングの様になってしまったが、FUNKYの卒業証書を授与したいと思う。


初めての北海道を無事走りきってVサインのO嬢。この後彼女は幾度も北海道を訪れる事になる。


F氏を先輩と呼ぶO嬢、シッカリと腕を持つ。
こうして見るとXSとXLの頭の違いが良く分かる。


3泊4日で1,622km走ったRZV500R
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Ryuuaro Hirata

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