1955年第1回秋田県モーターショー
開催場所  現在の広小路に面した秋田市中通2丁目デンコードー付近
                                                              by Ryuta

  終戦から10年ほど経った昭和30年、秋田市で第1回秋田県モーターショーが開催されました。当時、モーターショーといっても四輪ではなく二輪が中心のモーターショーであったようです。

 唱和製作所製造の唱和号秋田県総代理店であった平田モーター商会も出展しておりその時の写真を掲載してみました。当時の人々の服装や秋田の風景もご覧いただけます。






 子供を連れた家族連れが多く訪れているように見える。庶民の足は自転車が中心で自転車にエンジンを取り付けた本当の原付自転車も見える。オートバイスタイルの二輪車は高価で庶民には高嶺の花であったようである。今でいったら四輪の高級外国車位のポジションであったのかもしれない。

 当時のバイクの価格は、各社125ccが135,000円前後、250ccは185,000円前後で、この価格は高度成長が始まる1965年頃まで変わらなかった。大卒の初任給が5,000円もいかない当時としては、250ccの価格は年収の3倍以上の高額であったのである。

 後ろに見える建物は加賀谷書店の建物で、加賀谷書店は現在も有るので開催場所を知る参考になると思います。この写真の左側が広小路でその奥に秋田駅がある。






 唱和号の他、アサヒ号、陸王・メグロ(代理店は大町の田原商会)、ラビットスクーター(富士重工)、コレダ号(スズキ、代理店は秋田日光モータース、現秋田スズキ)、キャプトン(代理店 菊谷商会)ホンダはベンリー(125cc)とドリーム(250cc)で代理店が違っていたようです。

  当時は今と違って決まったテリトリー(県単位とは限らない)の中で、代理店がそのバイク(メーカーでは無い)の独占販売権をもって販売を行っていた。メーカーに現在のように自前で販売網を持つほど力が無かったため、そのような販売方法を取ったと考えられるが、見かたを変えれば販売店が力を持っていたとも言える。

 本部看板の後ろの建物は数年前まで残っていたが、今は駐車場になっている。この場所は色々なイベントに使用されていて、私はここで行われたサーカスを見に行った記憶があります。





当時、広小路を走っていた路面電車の線路が写っている。






 中央奧の人が跨っているオートバイはVツインの陸王と思われる。その左にヘッドライトをこちらに向けて止まっているのは、バーチカルツインのメグロ500か?

 左手前に写っているオートバイはその年の3月に発売されたホンダのベンリイJB型(125cc)と思われる。

写真の小学生は、この場所の近くにあった秋田大学学芸学部付属小学校の生徒と思われ、今日は音楽の授業があった様で木琴を持っている。私も木琴を持って学校に行った記憶がある。

 当時、男子の履物は下駄が多く履かれていて学校の下駄箱の中には下駄が多く入っていた。右側の男子はズックを履いているので結構イイとこの子供と思われる。

 当時、短靴(タングツ)というのがあって普通の家の男子の多くはこれを履いていた。長靴を短くカットしてスニーカー形状にしたようなALLゴム製の短靴は完全防水で、履いている間にかいた汗で足がベトベトになり埃と混ざり合って足が真っ黒になってしまう特徴があった。

 しかし、いくら汚れても水道で洗えば直ぐに新品同様になり、また直ぐ履けるという長所も持っていた。私は足が黒くなるのがイヤだったので、もっぱら下駄派であった。 ズックと呼ばれる上部が布製の短靴は高くて買えなかった時代の話である。 






 こちらは、今の市民市場やNTTの場所にあった秋田高校の生徒さんと思われる。皆さん昼食用の弁当箱を持っている。彼らの多くが履いているのは、足駄と呼ばれる物で木から丸々削り出した下駄と違って、足駄は足の乗る板に2枚の歯が溝ではめ込まれていて歯が減ったら新しい歯に交換できるシステムになっていて、地球に優しい作りになっていた。

 手前に、はかりや本店はのプレートを付けたバイクが見えるが、バイクは、当時商店の主力の運搬器具で、まだ三・四輪トラックは高額で普及していなった。フロントフェンダー上のプレートは飾りではなく立派な広告板である。

 はかりや本店さんは、家の近くの茶町梅ノ町(大町4丁目4番)にあったはかり屋さんと思われ、色々なはかり(天秤秤、台秤、さお秤、ばね秤等)がウインドウに並んでいて、子供にとって結構ワンダーランドなお店であったが、今はその場所にマンションが建っている。






 この唱和製作所製 クルーザー250 のフロントにはアールズホークが装着されており、(注、スイングアームを逆さにした様なフロントサスペンションで横剛性が高いのが特徴でBMWのサイドカーなどに多く取り付けられていた。)当時の砂利道走行では動きがスムーズで好評であったようだ。

 今のほとんどのバイクに装着されているテレスコピック式のフロントサスペンションは存在はしていたが、インナーチューブの剛性が低いのとオイルシールの材質も悪かったためオイルの漏れる事が多いなど欠点が多かった。そのため1950年代後半から1960年代前半のフロントサスペンは、今のスーパーカブやメイトに使われているボトムリンクが主流となっていく。

 写真右奥に見えるバイクのフロントフォークと同じ物を、学生の時作ったモトクロッサーに取り付けてジャンプしたら一発で曲がってしまった記憶がある。










一番手前のバイクはライトクルーザー125cc

エンジン 仕 様
● チェーン駆動の OHC (オーバーヘッドバルブ)

● オイル潤滑装置  タンク別体のドライサンプ方式


  当時としては革新的なOHCヘッドを持つこの125は、今でも通用しそうなスペックを持っていたが、カムチェーンの材質の悪さからくる伸びやカムチェーン・テンショナーの不良による異音、各部のシール材質の悪さからくるオイル漏れ等に悩まされ、バイク屋泣かせのバイクであったようだ。

 しかし、平田モーター商会が製作したオイルクーラー付きスペシャルマシンが存在したのを私は知っている。




唱和号 ライトクルーザー 125  1955年モデル
シリンダ左側にはカムチェーンの入ったカバーが見える。
エンジンとミッションは別体でチェーンでミッションにパワーを伝える。
キャブレターはアマルタイプのフロート別体式である。
シート左側にドライサンプのオイルタンクが有り配管が上と下から出ている。
ブレーキペダルとチェンジペダルは現在とは逆で、左側にブレーキペダルが有る。


 今、このバイクをこのスペックで今の技術で製造したらベストセラーになること間違い無し?
 デビューが50年早過ぎたようである。

 トラブルの多さに泣かされたメーカーが取った策は、問題の多いOHCエンジンを捨て1958年に発表されたライトクルーザー125のエンジンは、新開発の2サイクルのクランクロータリーバルブ(1959年発売のVespaと同じ機構)エンジンに変わっていた。

 技術的に常に新しい物にチャレンジしていた唱和製作所で有ったが、バイクメーカーの淘汰が始っていた4年後の1959年倒産し、ヤマハ発動機に買収されることになるのである。

 ホンダがOHCヘッドの2気筒エンジンを搭載した ドリームC70 を発売したのは2年後の1957年
10月のことであった。





この写真を見ていると、10年前の中国の写真を見ているような気になるのは私だけか?





 当時の大人の女性は、出掛ける時ほとんど和服で手には風呂敷包みを持っていたような気がする。

 学校の入学式や卒業式の写真に写るお母さん達の姿は、ほとんどが和服であったような記憶がある。







注.ここに書かれているコメントは、私の曖昧な記憶によるところが多々有り全てが正確なものではない事をご了承ください。

Ryuta’s MUSEUMへ
HOMEFUNKY LibraryRyuta’s Museum東北情報北海道情報秋田の林道秋田ヤブ山紀行Mail
Copyright(C) HIRATA  MOTOR CO., LTD.All rights reserved.