●浅間レース                                                                                                             by Ryuta
 我家に昔から残っていた写真の中に、浅間レースの写真が混じっていた。浅間のレースは昭和30年(1955年)、昭和32年(1957年)、昭和34年(1959年)の3回開催されていていたが、調べてみると第一回浅間高原レースは一般道を使用して開催され、第二回、第三回は新しく造られた<浅間高原自動車テストコース>で開催されたようである。

 我家に残っていた写真は多分親父が撮影した物と思われるが、当時の私は幼稚園から小学校に上がった頃で親父が浅間のレースを見に行った事など全く記憶に無く、生前親父から浅間レースの話を聞いた事も無かったので写真の詳しい事は全く分からなかった。

 そこで今回インターネットで見つけた「日本モーターサイクルの夜明け」というHPを参考にさせて頂き、残っていた写真を調べてみる事にした。浅間レースの写真は、公道を使用したレースとクローズドコースを走っているものとの二種類が有るようで、親父は1955年の第一回浅間高原レースと1957年第二回浅間火山レースの二回、浅間に足を運んでいた事が分かった。

 当時親父は唱和号(クルーザー号)の秋田県総代理店をやっていて、レースに参加していたクルーザー号の応援の為、遥々秋田から浅間まで行っていたようである。当時の秋田からの交通手段は当然鉄道しかなく、蒸気機関車に牽引された列車でSLの黒煙に悩まされながら乗る夜行列車は大変だったと思われる。

東京回りで浅間に行ったのか新潟回りで行ったのかは知らないが、秋田から東京に行くのに14時間位掛かった時代だからそんな大変な思いをしてまでも浅間のレースを観に行った親父の熱い気持を感じてしまう。今だったらヨーロッパにレースを観に行けてしまう時間なのだから。


●1955年 第一回浅間高原レース
 第1回浅間高原レースは、1955年(昭和30年)11月5〜6日に開催されたようで、北軽井沢をスタート地点とするコースは、全長は19.2kmの公道(オフロード)を使用して行われたようだ。レースは30秒間隔で2台ずつコースインするインターバルスタートだったようでその模様が親父の写真に残っている。

 レースの模様はこちらを参照してもらいたいが、親父が応援した唱和クルーザー号はヤマハのYA1が上位を独占した125ccクラスで19位、250ccクラスはリタイヤと成績は芳しくなかったようである。詳しい成績はこちらから。



ゼッケンNO,1 125ccクラス 13位 メグロの井上薫壱選手。
ゼッケンNO,2 125ccクラス 6位 スズキの鈴木英夫選手。


     ゼッケンNO,21 125ccクラス 19位 唱和の小野昌俊選手。(向かって右側

 この125ccマシンは、当時市販していたOHCのドライサンプエンジンを搭載したバイクをチューニングアップした物と考えられる。

                    125cc市販車 当時の店舗前にて撮影。


当時うちの店には、オイルクーラーを装備したスペシャルマシン有ったのを私は記憶している。唱和は1957年の浅間レースに2サイクルエンジンのマシンで出場しているので、もしかしたらそのバイクは親父が古くなった浅間レーサーを譲り受けた物だったかもしれない。

 そのバイクはエンジンは掛からなくなっていたが私が16歳になるまで倉庫に有って、私は動かないエンジンを下ろしホンダのCV92の125ccエンジンを無理矢理フレームに載せてナンバーを取り?暫く乗っていた。今考えてみれば、浅間を走ったレーサーを私は走らせていたのかもしれない。

 その後モトクロスレースに出る為に製作したスズキのK10(80ccを90ccにボアーアップしたマシン)のスペシャルマシンに、フロントフォークを移植して走ったらジャンプ一発でくの字に曲がってしまった記憶が有る。色々楽しませてもらったバイクではあった。



ゼッケンNO,13 125ccクラス リタイヤ スズキの伊藤利一選手。








 スタート地点の見物客は家族連れが多く、現在のレース場で見られる風景とはチョット違う雰囲気が見て取れる。道路脇に立つ観客の姿は、現在のWRCラリーやマン島レースの雰囲気にも似て楽しそうで、レースを楽しむ環境としては、昔の日本の方が良かったようである。











 交差点を使った直角コーナーも有り、急減速、急加速が見られる絶好のビューポイントであったようで人が集まっている。コース脇には坪150円の看板も見えて、私には安いのか高いのか分からないが、当時坪150円でここに土地を買っていれば、今頃軽井沢に別荘が持てていたかもしれない。








家の玄関先でレース観戦が出来るとは何と幸せな事だろうか。





















ゼッケンN0,6は、500ccクラス3位に入ったキャプトンの鷲見敬一選手。



ゼッケンNO,17 125ccクラス16位 ミシマの 谷沢喜八選手。OHVエンジン3速ミッションであるようだ。



●1957年 第二回浅間火山レース
 第2回浅間火山レースは、1957年(昭和32年)10月19〜20日に新しく造られた <浅間高原自動車テストコース>で開催された。コースは1周9.351kmの未舗装コースであったが、日本で最初のサーキットと呼べるものだったようだ。

 親父の写真の中に横一線に並んだレーサーの写真や浅間山をバックに走るレーサーの写真が有り、親父が1957年にも浅間に行っていた事が分かった。この時のレースの模様はこちらから。

 親父が応援するクルーザー号の成績は、125ccクラスでヤマハ、ホンダ、トーハツに次いで10・11・15・16位、250ccクラスはヤマハ、ホンダに次いで8位に入っている。この年のレースにスズキは参加しておらず、スズキが出場していれば順位はもっと下がっていたと思われる。レースの結果はこちら














写真が不鮮明でよく分からないが、転倒シーンを取った写真のようでライダーが空中に浮いている様に見える。







 250ccクラス ゼッケンN0,64 ライラックの大橋幸二郎 結果リタイヤ。 ライラックの特徴である縦置きVツインの為、エキゾーストパイプの出方に特徴がある。




注.ここに書かれているコメントは、全ておいて確認を取っておりません事をご了承ください。
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