N360と共に・・・

※この <N360と共に・・・> は、BBS Ryutaの独り言 に 2010年1月22日から3月31日まで連載した物を纏めたものです。            by 平田隆太郎


 HONDA N360
   HONDA N360 をご存知だろうか?
 1967年発売のHONDA初の4シーター乗用車(軽自動車360cc)が、N360である。

昨年の九月に昔の看板を貰った話を書いた時、私が昔N360に乗っていた事を書いたのを覚えている方もいらっしゃるかと思いますが、先日昔の写真を穿り返していたら当時乗っていた
N360Sの写真が出て来た。下がその N360S の写真(1977年撮影?)である。考えてみると車体カラーは今乗っている GSX−R K5 と同じ黄/黒カラー(黒は後から塗装)で、昔から私は黄色が好きだったのかもしれない。

 新車から4年経っている車体は、写真が乗鞍岳の林道を走って来た後のもので泥だらけの為もあるが、あちこちに錆が出ていて大分やつれている。当時のHONDAの車体(HONDAに限らない?)は本当に錆び易く、車体を少しでもぶつければそこから直ぐに錆が浮いてきたのを思い出す。

 この N360S の事を数回かに分けて書いてみたいと思う。





 N360S
   N360が昭和42年(1967年)3月にHONDAから発売されると、その高出力(31PS/8,500rpm)と低価格(狭山工場渡し価格¥319,000−多分?)でN360は爆破的に売れた。当時の他社(スバル・スズキ・ダイハツ・三菱等)の軽自動車は最高でも27〜8馬力で価格も35万前後だったと記憶するが、N360の登場は本当にセンセーショナルなもので一気にその年最も売れた軽自動車になった。

 当時HONDAはまだ四輪専門の販売チャンネルを持っておらず、四輪も二輪販売店が販売している事が殆どだった。当然、四輪の重整備は二輪販売店では難しく、HONDAは各県に1箇所程度 SF(サービスファクトリー?) 設置して対応していた。

 HONDAを販売する店はホンダ専門店と呼ばれ二輪も四輪も販売していたが、ホンダの四輪販売が拡大していくに従い二輪中心から四輪中心の販売にシフトしていくお店が増え、四輪の整備工場を自前で持つ販売店が増え行く事になる。

 今はHONDAの二輪と四輪の販売チャンネルはハッキリと分かれているが、HONDAの四輪販売店でも系列会社に二輪店を持っている会社が多いのは、そんな歴史的経緯があるからなのである。

 N360 が販売されてから1年経った1968年春、私が学校から帰ると親父がN360を買う事にしたが、どれが良いかを聞いてくる。当時私は高専の5年生になったばかりだったが、学校から帰ってから店の仕事(バイクの修理等)を手伝っていたから、親父はそのご褒美にN360を買う事にしたのかもしれない。

 当時、我家にはマツダの軽四輪乗用車キャロルが有って私も時々乗る機会があった。キャロルは乗り心地は良かったが、水冷四気筒OHV横置リヤエンジンの為か車重が他車(400kg以下)より150kg以上重く、非力(20PS?)な事もあってエンジンは唸るが本当に走らない車で、ストレスの溜まる車だった事を思い出す。

 私はこの年に発売されたN360の内外装を変更(タコメーターを装備)したN360S(シングルキャブ車)が良いと親父に返事をした数週間後、学校から帰ると黄色いN360Sが店に置いてあった。

 私はこのN360Sにアルファロメオ1600GTを買うまでの四年間乗る事になるのだが、N360Sで私はFF車の走り方を学び、そして日本各地に出掛けるのである。

 次回からは、1968年から始まるN360Sを書いて行こうと思う。





 N360で通学
   家にN360Sが来た時、高専の5年生になっていた私は学校に通うのにN360Sを使う事が多くなった。家から学校までは10km程度の距離が有り、私は運転免許の無かった1年生の時は自転車で、軽免許(16歳から取れる)を取ってからは雪の有る冬場を除いてバイクで学校に通っていた。

 四輪で通えるという事は、雨の日も濡れる事は無く雪でも通える事から、通学に関しては5年生の1年間は本当に楽だった事を思い出す。当時学校に四輪で通学していた学生は私を含め二名(一名はマツダ・ルーチェ)だけだったが、通学に四輪を使う事に何の規制も無い良い時代だった。当時の日本は本格的な車社会が始まったばかりで、学校側も四輪で通学する学生は少なく問題にならなかったのだろうと思う。

 1968年の夏休み、私は自分の運転で初めて東北を脱出する計画を立てるのだが、それは小さな360ccの軽自動車(N360S)に三人が乗り、全行程2000km近くも有る鈴鹿サーキットを目指すという、今から考えると結構無謀な計画だった。何故鈴鹿サーキットが目的地だったと言うと、当時実家がHONDAの販売店だった事も有るが、世界GPやF1で活躍していたHONDAの大ファンだった私は、HONDAのお膝元である鈴鹿サーキットを一度走ってみたいと考えたからだった。

 1968年は、1967年でHONDAが二輪の世界GPから撤退、1967年まで富士スピードウェイで行われていた日本GPの開催も無くなった年で、二輪モータースポーツの節目となった年でもあったのである。



 鈴鹿サーキットを目指す
   鈴鹿サーキットをN360Sで走る計画を立てた私だったが、問題は費用だった。

 遠征費用としては、

●ガソリン代  2000km÷20km/L×50円/L   ⇒ 7000円
●食事代    600円×10回×3名         ⇒18000円
高速・有料道路・その他                 ⇒ 8000円
                   合  計     33,000


 予備を含めて4万円は用意しなければならなかったが、当時の大学卒の初任給が3万円位の時代の事で学生だった私に取って4万円は大金だった。

 費用を捻出する為、私は母の実家の本屋さんに泊り込みで二週間ほど軽トラックに乗って配達のバイトをする事にしたのだが、当時のバイト代は1日450円(時給でなくて)程度で費用の工面には苦労した。

 それでも何とか費用を用意した我々は、8月のお盆の時期に秋田を出発する事になったのだが、今と違いお盆の帰省ラッシュは無かった時代で、お盆の時期は今とは反対に皆さんお休みで国道を走る車は通常より少なかったような気がする。

 私と一緒に鈴鹿に向けて旅立ったのは姉(大学生)と弟(高校生)と私の三人で、姉弟三人だけで旅に出たのはこの時が初めてだった。三人の中で運転免許を持っているのは私だけで、2000kmの距離を走るのも初めてで多少の不安は有ったが、若い私は心配していなかった。

 心配だったのはN360Sの方で、360ccのエンジンで三人を乗せて2000kmを走り切れるか心配だった。今の軽自動車だったら何キロ走っても全く問題無いのだろうが、当時の軽自動車の技術レベルでは長距離走行には不安が有ったのである。しかし、基本的にN360SのエンジンはCB450のエンジンで実績も有り、故障しても日頃からバイクの修理をしていた私は何とか出来る自信は有った。

 そして出発の日を迎える事になる。出発当日は晴天で、我々は午前7時頃秋田市を出発し国道7号線を南下、先ずは新潟を目指して走り始める。



 秋田県を脱出
   N360Sに乗り込んだ我々3名は大町の家を出発、山王交差点(当時は山王ではなかったと思う)を左折して国道7号(新国道)に入る。左に国道13号を見ながらを茨島のT字路交差点(臨海バイパスはまだ無かった)を直進すると、秋田経済大学(今のノースアジア大学)及び附属高校(今はマルホンやリボンが在る場所)や茨島工業地帯(東北肥料や三菱金属等)が見えて来る。

 今はパチンコ店やショッピングモールの印象が強い茨島地区だが、当時は秋田屈指の工業地帯で盛んに白い煙を上げていたのが印象に残っている。雄物川に掛かる秋田大橋を渡り始めると前方左に東北パルプ(後の十条パルプ)の煙が見えて来る。この東北パルプは、臭い匂いを出したり今では考えられない黒い廃液を雄物川に排出していたが、秋田大橋の上を毎日荷台に木のチップを満載したトラックが走っていたから、その頃から秋田の山からブナの森が消えていったのかもしれません。

 秋田大橋を渡り日吉神社の前を通過すると人家も少なくなり秋田市を離れるという想いが強くなるのだが、本荘までは小さい時から車に乗せらよく行っていたから見慣れた景色が広がっていた。昭和43年頃の国道7号線はさすがに全線舗装になっていたが、バイパス等はまだ殆ど整備されておらず、大きな街でも街の中をしっかり辿って通っている事から街の通過には結構時間を取る事になる。

 本荘市も石脇から由利橋を渡って街中を走って通過していたから、今の本荘大橋を渡る本荘バイパスと比較すると倍以上時間が掛かっていたのではなかろうか。象潟の蚶満時の前を通過して三崎で県境を越え山形県に入る。小学校の遠足で訪れた事の有った十六羅漢の横を通過するが、今回の旅は先が長く観光地に立ち寄る事も無く私はただただ走り続けるのであった。

下の写真は昭和43年より10年位前、雄物川に架かる秋田大橋の上で新屋側から茨島方向を撮影したものだが、車を止めて撮影しても問題無い位交通量は少ない。通っているのは自転車に乗っている人ばかりである。車は羽後銀行で使われていた物の払い下げで、英国製 モーリス (日産製ではない)である。シートは皮製で車が廃車になった後も、我家でソファーとして暫くの間使われていた。





 山形から富山へ
   山形県に入って酒田、鶴岡と庄内平野を抜けると、国道7号は磯の海岸線を走るようになり、曲りくねった道が続く。海岸線の美しい景色が我々の目を楽しませてくれたのだが、点在する集落の中を走る国道は狭く結構気を使う走行が続く。

 温海温泉入口を過ぎ鼠ヶ関を通過するといよいよ新潟県に入る。新潟県に入ると国道7号は海岸線を離れ内陸に入る。今の私だったら海岸線を走る県道を使い笹川流れを通って村上に出るのだが、当時はまだまともに車が通れる道は無かったと思う。

 国道7号には村上に出るまでの間に峠が有って、この峠越えでN360Sの弱点が露呈する事になった。360ccエンジンの車に3人乗って峠道をTOPギヤ(四速)で60km/h位のスピードで上って行くと、次第にエンジン回転が落ちて来て3速へのギヤダウンを余儀なくされたのだ。

 当時軽自動車最高馬力の31PSエンジンではあるが、その馬力発生回転数が8,500回転と高く低回転トルクが無い為、負荷が掛かると回転が落ちてしまうのだ。それでもこの峠の標高差は大きくなく、3速と4速を使い分けて何とか峠を越える事が出来たのだが、このトルクの無さはその後のN360Sの運命に係わって来る事になる。

 峠を越え村上にでるとこれから先の新潟県には峠らしい峠は無く、走りで苦労する事は無かったのだが、私はそれとは違った部分で新潟県に苦労?させられる事になる。昼頃、我々は新潟市に入ったのだが、新潟市には姉が通っていた大学が有る事から土地勘も有り、古町辺りで昼食を取ったような気がする。

 昼食後、我々は国道8号に入って先ずは長岡を目指す事になるのだが、これから先新潟県を抜けるまでが長かった。地図で見ればお分かりだと思うが、新潟県の海岸線は300km近く有って、走っても走っても富山は遠かった。変わらない景色(信濃平野)の中をN360Sはひたすら走り続け、燕、長岡と走って我々はやっと海岸線の柏崎に出る。

 しかし、ここまで走っても新潟県はまだ100km以上残っており新潟県に飽きて来ていたが、私は国道8号線の難所 親不知子不知 を楽しみに走り続ける。国道8号線最大の難所と言われる 親不知子不知 は、北アルプスの北端が日本海に没する険しい地形で、私は写真では見た事があったが実際どんな所か見てみたかったのだ。

 しかし実際に 親不知子不知 を走ってみると、大型トラックがやっと交差出来る狭い道ではあったが、通過しただけではその険しさはそれ程感じられず、少々拍子抜けだった。今の 親不知子不知 は高速道が海に張り出して通っていて、海側から険しい親不知子不知の景色が眺められらしいいのだが、当時の私にはトンネルの印象しかなった。

 親不知子不知 を無事?通過した我々は、永遠に続くと思われた長い長い新潟県を抜け、富山県に入る。



 富山市
   富山県に入ったのは夕方で、我々は秋田市から540km走って六時過ぎに富山市に入る。辺りは陽も傾き薄暗くなってきていて、我々は富山市で今晩の寝床を探す事にしたのだが、今回の旅は宿を全く決めておらず我々は宿を探す為富山駅に向かった。

 今だったら携帯で宿を探すのだろうが、40年以上前では観光案内所等が在る駅に行くのが宿探しには一番だった。観光案内所で素泊まりの安い宿(ビジネスホテルなど無い時代)を探してもらったら、駅近くの旅館を紹介される。三人で2千円位だった記憶するが、我々は駅の売店で夕食用の名物鱒寿司を購入して宿に向かった。

 教えられた旅館に到着してみるとそれは大きな立派な旅館で私は驚いたのだが、通された部屋を見てまた驚いた。我々が通された部屋は200畳位?有りそうな大広間で、そこでどうぞお休み下さいと言われたのだが、どこでどう寝れば良いのか私は悩んでしまった?

 旅館としては、安く泊まりたいとの要望でもあり使っていない大広間を用意したのだと思うが、こんな大広間に寝るのは修学旅行以来の事で私は大いに戸惑ってしまった。我々は駅で買って来た鱒寿司を食べて夕食としたのだが、その時空き腹に食べた鱒寿司が大変美味しかったのを覚えている。お腹も膨れ、する事も無く早目に床に着いた私だったが、なかなか寝付かれなかった。

 修学旅行で大広間に大勢で寝るのでそれはそれで楽しい部分はあると思うが、ガランとした大広間の電気が消されると本当に不気味で、座敷わらしでも出そうな感じでなかなか寝付かれなかったのだ。しかし疲れも有ったのだろう私は何時しか眠りに着き、そして2日目の朝は静かに明けて私は大広間で目を覚ましたのだが、時間はまだ五時前であった。暫く布団の中で過ごした私は、朝食も取らず(素泊まりですから)富山市の宿を出発、N360Sはいよいよ今回の旅の目的地 鈴鹿サーキット を目指す。



 富山から鈴鹿そして鳥羽へ
   2日目の予定は国道8号を金沢、福井、敦賀、草津と走って国道1号に入り、鈴鹿峠を越えて鈴鹿サーキットに向かった筈なのだが、その間の私の記憶が抜けている。それ以外の記憶は結構残っているのだが、記憶が無いという事は記憶に留めるような出来事が無かったと言う事なのかもしれません。

 人間の記憶というものは本当に不思議で、40年以上前の事でもハッキリ覚えている事が有るのに、1週間前の事は覚えていない事が多い。この現象は年寄りに顕著で、昨日の事は直ぐに忘れるが昔の事は良く覚えている。

 特に女性の場合、
「あの時〇〇って言ったでしょ!」
的な事は何十年経っても良く覚えているものである。

 話を戻そう。
 この富山〜鈴鹿サーキット区間で私が唯一記憶に有るのは、国道1号線の難所鈴鹿峠を通ったという事だけで、鈴鹿サーキットに到着したのは午後3時を回っていたと思うが、我々は早速鈴鹿サーキットの体験走行?に申し込む。

 当時、鈴鹿サーキットの西コースを自分の車で一周して、料金は500円程度だったような気がするが定かでない。

 我々はN360Sに三人乗ってゲートを潜って西コースに走り出したのだが、最高速が110km/h(カタログ値)の車でサーキットを走っても何の感動も驚きも無くアッという間に終了してしまう。それでもタコメーターをレッドゾーン(9000回転から)までキッチリ回した走りは楽しく、それなりに満足感は有った様に思う。

 走行申し込みの受付で、係の人が我々のナンバーを見て驚いたような顔をしたのを覚えているが、もしかしたら我々のN360Sは鈴鹿サーキットを秋田ナンバーを付けて走った初めての車(軽自動車)だったのかもしれません。鈴鹿サーキットを走る為に遥々秋田からやって来た我々だったが、サーキット走行は呆気なく数分で終了、我々はそそくさと鈴鹿サーキットを後にし国道23号で伊勢神宮に向かう。

 伊勢神宮までやって来た我々だったが、既に夕方で薄暗くなり始めており伊勢神宮のお参りは諦め、有料道路を使って鳥羽に向かう事にした。鳥羽に向かう有料道路からは、眼下に海に浮かぶ島々の美しい景色が見えたのを覚えている。

 我々は鳥羽から渥美半島伊良湖に渡る伊勢湾フェリーに乗る事にしていたのだが、今晩は鳥羽に泊まり、明日の始発便で伊良湖に渡る事になった。問題は今宵の宿なのだが、これから宿を探すのも面倒だしお金の節約もあって、今晩はフェリー乗り場の駐車場で車の中で寝る事になった。小さなN360Sの中で寝るのは初めてだったが、若かった我々は何とか三日目の朝を無事に向かえる事になるのである。



 鳥羽から東京へ
   3日目の朝が明ける。今日も天気が良く3日連続で我々は晴天に恵まれた。

 私は運転席で背もたれを少し倒して寝たのだが、なかなか寝付かれず寝たような起きていてような微妙な感じのまま、朝陽が昇ってくるのを見ていた。陽が昇ってから始発の伊勢湾フェリーが出港するまでは結構時間が有ったが、私はフェリー乗り場の先頭にN360Sを移動してその時を待つ。

 我々が乗った伊勢湾フェリーは甲板に車を載せるタイプの小さなフェリーだったが、先頭で乗船を待っていた私は、生まれて初めて乗るフェリーに結構ドキドキしていた記憶がある。そして乗船の時がきたのだが、バイクと違って四輪はふらつく事も無いから係員に指示に従ってあっけなく乗船、1時間ほどで我々は渥美半島伊良湖に到着する。途中風が強く結構船は揺れたが、初めてのフェリーの旅はあっけなく終了、我々は渥美半島に上陸した。

 伊良湖から渥美半島を走って豊橋に出た我々は、東名高速の豊川ICを目指す。我々はN360Sに乗って、生まれて初めて高道路を走る事にしたのである。当時の高速道は、名神高速は全線開通していたが東名高速はまだ御殿場〜大井松田間が完成しておらず、我々は御殿場ICまで初めての高速道を楽しむ事になったのだが、N360Sで走る高速道路は決して楽しくはなかった。

 軽自動車の速度制限は80km/hで、N360Sは条件が良ければ(下り坂)100位は出るのだが、この車速で走り続けると兎に角煩かった。高回転型の空冷エンジンは、7千回転以上をキープして走ればTOPギヤでもそれなりには走る事は出来たのだが、遮音材など殆ど無い車内はエンジン音が充満して煩かった。

 それでも東名高速の豊川IC〜御殿場IC間には大きな峠など無く、N360Sは高回転エンジン音を奏でながら、何とか無事に御殿場ICまで走り切ったのであった。御殿場ICを降りた私は国道138号に入り、籠坂峠を越えて富士スバルラインに向かう。N360Sに三人乗って富士山の五合目まで登ろうと言う計画なのだが、今考えれば結構無謀な計画だった。

 山中湖から河口湖に出た我々は、いよいよスバルラインを上り始める。スバルラインの傾斜自体はそれ程キツくはなく問題無く五合目まで登る事が出来たのだが、五合目の駐車場までは結構な距離が有りまた高回転を多用した事から終点に到着した時には、燃料計の針がE近くになっていた。

 下の河口湖までガソリンスタンドは無くガス欠が心配されたが、下までは殆どが下り坂で私はエンジンを切って何とかGSに辿り着く事が出来たのだが、ガソリンタンクにはタンク容量と同じだけのガソリンが入って、結構やばい状況であったのを覚えている。

 給油後、我々は再び御殿場に戻り国道246号で東京を目指したのだが、スバルラインで時間を使ってしまった我々は、予定の東京に辿り着く事は出来ず途中の道端で車を停め車の中で寝る事になるのであった。



 東 京
    二子橋を渡って東京都に入った我々は、玉川通りで渋谷に向かう。記憶がハッキリしないが、玉川通りにはまだ玉電が走っていて軌道が走っていたように思う。

 当時全国を走る路面電車が次々に消えていっていて、秋田市でも土崎と秋田駅を結んで走っていた市電が昭和40年頃にに廃止されたのだが、CO
2排出の少ない市電が今も残っていたら、秋田市の交通事情も違っていたのかもしれない。私が小さい頃、市電の線路にカンシャク玉や鉛の玉を並べたりして遊んでいた事を思い出す。今そんな事をしたら大変な事になるのでしょうが、本当に良い時代でした。

 三軒茶屋、渋谷と走って我々は大都会に入り込んで行く。土地勘の無い私は青山通りに入って以前一度行った事のある赤坂に向かったのだが、その先の事は考えていなかった。その時の私が東京で知っている場所は、赤坂溜池に在った以前親父と一緒に行った事のある会社ぐらいであったのである。渋谷、赤坂見附、虎ノ門と走った私は、新橋駅のガードを潜って昭和通りに入ると、銀座、日本橋、秋葉原、上野駅前を通過して国道4号を宇都宮を目指す。

 ただ通過しただけの東京だったが、今考える何故東京に行ったのかその理由がよく分からない。秋田の田舎者としては憧れ?の東京の街を車で走ってみたいと考えたのかもしれないが、結局何も思い出の無い東京でありました。



 国道4号
   国道4号を北上し始めた我々は、新しい草加バイパスを北上し始める。当時の国道4号は、バイパスといえるバイパスは草加バイパス(四車線)ぐらいで兎に角時間が掛かった。東京から秋田までの距離は約600km、国道4号を福島まで約300km走り、福島から国道13号で秋田まで約300km走る事になる。

 東北道はまだ何処も開通しておらず、我々は殆どが二車線路の国道を走って秋田を目指す。宇都宮までは100kmあるのだが、この100kmが長かった。交通量も信号も多くて時間ばかり掛かってなかなか先に進まなかった。

 宇都宮を過ぎると交通量が減り少しは走り易くなったが、平均時速40km/hを維持するのが難しかったように思う。それでも那須、郡山と走って我々は何とか昼頃には福島に到着する。福島から国道13号に入って山形に向かったのだが、福島県と山形県の間には板谷峠が在って、この峠越えがN360Sに取っては大仕事だった。

 360ccに乗員三名、四速ギヤは勿論三速ギヤでも回転を維持できず、N360Sは二速までギヤを落として峠を上って行く。N360Sのエンジンは唸りを上げ7千回転以上をキープ、30〜50キロ位のスピードで峠を上って行った。兎に角トルクの無いエンジンは坂道に敏感で、坂が少しでも急になると回転が落ちてしまい二速までギヤを落として何とか峠を越えたのだが、この経験が後にN360Sのエンジンに手を入れるきっかけとなったのである。



 無事帰還
   栗子トンネルを抜け何とか山形県に入った我々は、米沢〜赤湯〜上山と走って山形市に入る。当時まだ山形市のバイパスが出来ていなくて、山形市街の通過には結構時間が掛かってしまった。昨年久しぶりに山形市内を走る機会が有ったのだが、旧県庁前の道(旧国道13号)は当時の事を思い出して本当に懐かしかった。

 天童、大石田、新庄と走って金山から雄勝峠を越えてようやく秋田県に入ったのだが、当時の雄勝峠は結構な難所でパワーの無いN360Sでの峠越えにまたまた苦労する。国道13号の山形・秋田間には幾つかの峠が在るのだが、その中でも最大の峠が県境の雄勝峠で、そこには雄勝トンネルが在った。当時の雄勝トンネルは照明も無い狭く長いトンネルで、ヘッドライトが暗い二輪で走ると壁にぶつかりそうで怖いトンネルだったが、四輪の場合ライトが二つ有るしふらつく事も無いので、問題無く雄勝峠越えた我々は、三日ぶりに秋田県に戻って来た。

 県境から秋田市までは130km位で約3時間半で秋田市に到着、今回の旅は無事終了する。東京から秋田市までは14時間位掛かったように記憶するが、今なら東京〜秋田間は高速道を利用して7時間程度で到着するのだろうから今の倍の時間が掛かった事になる。何とか暗くなる前に秋田市に帰って来た我々は、3泊4日のチャレジを無事終了する事が出来たのでありました。

 360ccの小さなエンジンで2,000km近い距離を走ったN360Sは、故障も無く無事に全行程を走り切ったのあります。この遠征?で問題となったN360Sのトルク不足を解消する為、私はトルクアップを模索する事になったのだが、その答えは翌年に出される事になる。



 第15回東京モーターショーへ
   私が3泊4日の鈴鹿遠征の次に考えた遠征は、10月末に東京晴海で行われる第15回東京モーターショーを見に行く事だった。学生であった私は、モーターショーを見に行く為に学校を休むわけにはいかず、土曜の午後(当時の学校は土曜日半ドンで昼間まで授業)に秋田市を出発、日曜日にモーターショーを見てその日の夜に秋田に帰って来る結構タイトな計画を立てた。

 ルートは、先に通った国道7号で新潟に出た後、国道8号で長岡まで走り長岡からは初めての国道17号で三国峠を越え東京に向かうルートである。帰りは前回と同じく国道4号で福島まで、福島から国道13号で秋田市に帰って来るルートとした。今回のルートには三国峠という初めて通る大きな峠があり、非力なN360Sでは少々不安が有ったが、今回は三人ではなく二人乗車で走る事から前回よりは負荷が軽く何とかなるだろうと私は考えていた。しかし、N360Sに予期せぬ問題が発生する事になるのである。

 そしてその当日がやって来る。学校から速攻で帰って来た私は弟と共に秋田市を出発、先ずは新潟を目指した。新潟県長岡市までは一度走った道で問題無く走り、国道17号に入っていよいよ三国峠に向かう。新潟県に入る頃にはすっかり日も落ちており、我々は真っ暗な三国峠を何とか越えて日付が変わった頃に赤谷湖を見下ろす猿ヶ京温泉前のパーキングにN360Sを止めた。

 今回も泊まるのはN360Sの狭い車中だったが、今回は後席に人がいないのでリクライニングシートをおもいっきり倒して眠りに着いた。

 翌朝、とんでもない事を発見するとも知らずに・・・?



 トラブル発生
   私は熟睡とはいかず、青函フェリーに乗った時の様な中途半端な眠りで目が覚める。太陽はまだ昇っていなかったが、天気は良く東の空が少し明るくなり始めていた。暫く車内で時間を過ごした後、私は外に出てエンジンを点検する事にする。昨晩三国峠を越えた時、N360Sのエンジンはレッドゾーンまで回され大きな負荷が掛かっており、エンジンの様子を見る事にしたのだ。

 車外に出てみるとパーキングには止まっているのは我々だけで、外の空気はひんやりと冷たかったのを覚えている。ボンネットを開けエンジン周りのオイル漏れ等を点検していると、私は大変な事を発見してしまったのである。

 N360Sのエンジンは、空冷のCB450のエンジンを基本にエンジンの後側に冷却ファンを取り付け強制的にエンジンを冷やす構造になっているのだが、この冷却用ファンを回すVベルトのプーリーが脱落しているのを発見したのだ。

 プーリーが無いと言う事は冷却ファンが回っていなかったわけで、何処でプーリーが脱落したかは分からないがN360Sは此処まで空冷オートバイのように走行風だけで走って来た事になる。こんな事になっているとは知らずに走っていた私だが、オーバーヒートする事無く此処まで来れたのは幸運だった。

 しかし、これも基本がCB450の空冷エンジンだから出来た事で、N360Sのエンジンが水冷でウォーターポンプのプーリーが外れたら確実にオーバーヒートしていたに違いない。エンジンルーム内を探すと、幸いにもサブフレームの隙間にプーリーが引っ掛かっているのを発見したのだが、それを取り付けるナットが無かった。

 プーリーが有ってもナットが無ければプーリーを固定出来ず、クーリングファンを回す事は出来ない為状況はなんら変わらなかった。この状況を知ってしまった私だが、ナットを探しに三国峠に引き返す訳に行かず、私にはこのまま東京に向かうしか選択肢は無かったのである。

 問題はナットをどこで入手するかだったが、ホンダは当時全国各地にSFと言うサービス工場を持っていて、車載の整備手帳には群馬県では前橋?(記憶に自信無し)にSFが在る事になっていた。私はそこまで行けば何とかなると考えたのだが、前橋までは結構距離が有ってそこまでエンジンが持つかが心配だった。

 幸いにも猿ヶ京から高崎まではゆっくりとした下り坂で、エンジンに負担を掛けずに走る事が出来た我々は、無事高崎から前橋SF前に到着する。しかし時間はまだ午前6時前で、当然店は開いていなかった。開店まで待つ時間は我々には無く困り果てた私だったが、N360の事故車が置かれているのを発見する。ホィールが外されボンネットも無いその車は、エンジンルーム内が見えていてエンジンにはファンプーリーが取り付いていた。

 本来ならば店が開店するまで待つべきなのだが、我々には開店時間まで待つ時間は無く、ナットを調達して東京を目指し走り始める。N360Sのエンジンは冷却ファンが無くても走れる事を知ったナット脱落事件だったが、その後プーリー取付けナットを時々増し締めをするようになったのは言うまでも無い。



 東京へ
   高崎から東京までの国道17号は、当時はまだ関越自動車道も無く結構交通量が有る道路で、まだバイパスが良く整備されていなかった事もあって結構混雑する道路だった。その日は日曜日の早朝であった為渋滞に嵌る事は無かったが、私はこれ以降何度となくこの国道17号を利用する事になり、渋滞に遭遇する事も多かった。

 私がこの国道17号の思い出として印象に残っているのは、東京に住んでいた当時(1970年台前半)夜行バスに乗って苗場スキーに行く時に通った17号で、特にバスが必ず止まったドライブイン(熊谷付近?)が印象に残っている。夜(11時過ぎ?)新宿を発って初めて止まるのが熊谷のドライブインで、そこでトイレや飲み物を飲んだりしたのだが、そのドライブインはスキー場に向かう多くの大型バスで賑わっていた事を思い出す。

 朝、苗場に到着し1日スキーをした後夕方またバスに乗って東京に帰るのだが、帰りもまた熊谷のドライブインで休憩を取っていた。今なら関越道を使って苗場は日帰り圏内なのだろうが、関越道が無かった当時苗場は夜行バスで行くスキー場だったのだ。それでも私は一度だけN360Sで苗場に日帰りで行った事があった。

 5時間掛けて苗場に行って朝からスキーを滑り、夕方また6時間位掛けて国道17号を走って世田谷まで帰って来るのだが、そんな無謀と思われる事も若さはやってしまうものなのである。それだけ当時のスキーに対する私のモチベーションが高かったと言う事かもしれませんが・・・。

 狭い国道17号を復活したN360Sを走らせ何とか大宮まで来ると、新大宮バイパスと言うやたらと幅広い道路が出来ていて田舎者の私は驚くのだが、我々は荒川を渡って東京都に入る。初めて走る都内の道で迷いながらも何とか日比谷交差点に出た私は、晴海通りに入って有楽町、銀座、築地と走り勝鬨橋を渡って、無事晴海の東京モーターショー会場に到着する事が出来たのであった。



 モーターショーから帰還
   なんとかモーターショーが開門する前に晴海に到着した我々だったが、モーターショーの会場に駐車場は無く我々は会場から少し離れた路上に車を停める。その年はまだ路上駐車の規制が厳しくなく停める事が出来た良い時代だったが、次の年からは取り締まりが厳しくなって駄目だような気がする。

 開門と同時に二輪会場に走り各社のカタログを集めながらバイクを見た後、四輪乗用車やトラックやバスを見学して午後の3時には晴海の会場を後にしたように思う。東京から秋田へは前回同様国道4号と13号を使ったのだが、その時の私はガソリンスタンドでトイレに行った以外、N360Sから一度も降りなかったように思う。

 その甲斐あって?我々が秋田市に無事帰還したのは午前2時頃であった。我々は東京〜秋田市間を11時間で走り前回より3時間も短縮したのだが、高速を使わずに作られたその記録はそれ以降破られる事は無かった。もっとも次の年からは東北道が次第に完成してきて、下道だけを走る事は無くなり秋田〜東京間の所要時間は徐々に短くなっていく。



 冬道の走りを学ぶ
   東京モーターショーから帰って来て1カ月も経たないうちに秋田では雪が降り始め、私はN360Sで初めての冬を迎える。それは私に取ってFF車で走る初めて冬でもあったのだが、その冬N360Sで私はFF車の走らせ方を学ぶ事になる。

 当時の国産車の殆どがFRかRR車のリヤドライブ車で、国産車の中ではN360が量産された初めてのFFではなかったろうか。ステアリングするタイヤで路面に駆動力を伝える事がどういう挙動を生むか、私はこのN360Sに教えてもらったのだが、路面が凍結する冬がその勉強には最高のスチエーションとなったのであった。

 当時の軽自動車の車重は軽くN360は500kg以下の車重だったが、FF車のN360ではその車重の殆どが前輪に掛かる荷重配分になっていた。リヤタイヤに荷重が掛かっていないFF車がどのような動きをするかというと、雪道では兎に角よくスピンする。交差点を歩く様なスピードで曲がりながらスロットルを少し戻すだけでN360はクルクルとよく回った。

 荷重の掛かっていないリヤは前輪を軸に少しのサイドフォースで簡単に滑り出すのだが、私はFF車でリヤが滑ったらドライバーは運を天に任せなければならない事を学んだ。当時はまだスパイクタイヤは一般的ではなく、スノータイヤという夏タイヤよりはましだが、今のスタッドレスタイヤとは比べようも無いくらいプアーなグリップ力のタイヤで走っていた。

 スノータイヤは、新雪が積もった道ではそれなりには走る事が出来るのだが、アイスバーンでは夏タイヤとなんら変わらないグリップ力しかない為、私はリヤトランクに砂袋を積んだり、リヤタイヤ(駆動輪の前輪ではなく)にチェーンを巻いたりして走っていた。

 私はN360Sで雪道のコーナーの走り方をよく練習したが、それはクリッピングポイントの1m位内側目指してステアリングを切り、スロットルを当てて前輪を滑らせアンダーを調整しながらコーナーをクリアーする走り方だった。そんな事が出来たのも軽くパワーの無いN360Sだからこそなのだが、今の1トン以上ある車ではリスクが大き過ぎて一冬で廃車になる可能性がが大ですね!?

 そして一冬N360Sを走らせた私は、FF車ではコーナーでは決してスロットルを戻してはいけない事、コーナーリング中は常にフロントタイヤに駆動力を掛けアンダーステアーでコーナーリングしなければスピンする事を学んだのであった。今のFF車のハンドリングは、ニュートラルなハンドリングに調整されている事が多くそれを特に意識する事は少ないが、N360Sで学んだ走り方は今でも私がFF車を走らせる時のベースになっている。

 また私はバイクでコーナーリングする時スロットルでコーナーリングラインをコントロールするようにしているが、それはN360Sで覚えたスロットルでコーナーを曲がる走り方と共通するものが有り、その走り方はバイクでも活かされているように思う。



 スープアップ
   一冬N360Sで過ごした事で私はN360の走り方を大分理解したのだが、そうなってくるとN360Sのトルク不足が気になってきた。当時N360のチューニングパーツは沢山出ていて、その中にCB450のピストンが組めるシリンダースリーブが有った。前にも書いたがN360はバイクのCB450エンジンをベースにボアーを小さくしたボアーダウンエンジンで、CB450のピストンが入るエンジンだったのである。

 N360Sに乗り始めた翌年、私は学校を卒業し東京の会社に就職したのだが、その会社の営業所が秋田市土崎にあって私はそこで半年間研修を受ける事になって、半年間秋田にいる事になった。就職した事で金銭的には少し余裕が出来た私は、長い間温めていたN360Sのエンジン改造計画を実行に移す事にしたのである。

 N360の最大の短所トルク不足を解消する為私はピストンを換えて排気量増やす事にしたのだが、その方法は既存のスリーブを取り外してボアーの大きいスリーブを入れて行った。今のシリンダーはアルミのシリンダーブロックに鉄のスリーブを鋳込んだ物かアルミブロックに直接メッキした物が殆どだが、当時のアルミシリンダーはアルミブロックに鋳造のスリーブを圧入した物が殆どで、N360のアルミシリンダーもスリーブを焼嵌めした物だった。

 シリンダーをストーブの上に載せて熱しアルミのシリンダーが膨張してスリーブとの嵌合が緩くなったところ(アルミはスリーブの鋳鉄より膨張率が大きい)で、スリーブをシリンダーブロックからプレスで押し出して取り外し、スリーブを取り外したシリンダーブロックの内面を大きなスリーブに合わせてボーリングマシンで削り、再びシリンダーブロックを温めてスリーブをプレスで圧入、最後にシリンダー上面をフライスで平面に仕上げその後ピストンに合わせてスリーブをボーリングしホーニング仕上げをして作業は終了する。

 シリンダーブロックのボーリングは、店にボーリングマシンが有ったので自分で削ってスリーブを入替えたが、フライス盤での上面の切削は外注したような気がする。シリンダーは出来上がったが、取り付けてみるとスリーブの外径がクランクケースの穴より大きく入らなかった。シリンダーを取り付ける為には、スリーブの径に合わせてクランクケースの穴を拡大する必要が有ったのだが、その為にはエンジンを降ろしエンジンを割る必要が有った。

 そんな面倒な事はしたくなかった私は、スリーブがクランクケースに当っている部分を削る方法を取る事にした。しかし、その結果スリーブ下端部分の厚さが薄くなり強度不足が心配されたのだが、結果的にはそれによる故障は起こらなかった。爆発圧力も側圧も少なくピストンスピードも遅いスリーブ下端部は、強度をそれ程必要としない事を私はその時に学んだ。

 無事シリンダーが取り付きエンジンは組上げられたのだが、キャブレターセッティングもしないでそのままで走ってみると、何の不都合も無くN360Sは走ってしまった。走行テストも行ったのだが、結局キャブには手を付けずにスタンダードセッティングで走る事にしたのであった。今だったら色々セッティングを試してベストセティングを探ったと思うが、当時の私にそんなセッティング能力は無く、不都合が無ければそれはそれでOKあったのである。

 エンジン以外の改造は、ダッシュボードに取り付いていたチェンジシフトをフロアーに移したり、リヤウインドウにワイパーを取り付けたり、カセットプレーヤーを天井に取り付けたりしていた。チェンジをフロアーに移した事でチェンジのHパターンが前後逆(1速の位置が2速、3速の位置が4速)になって最初は戸惑ったが、シフト操作は素早く出来る様になった。リヤワイパーを取り付けた事で雨天時の後方視界が確保され、N360Sは格段に使い易くなっていた。

 特に今では当り前のリヤワイパーも当時はまだ装着されている車は皆無で、私のN360S以外見た事は無かったように思う。使用したワイパーモーターは店に残っていた(1950年代の物)トラック用の後付けワイパーモーターで、リヤウインドーの下にドリルで穴を開けて取り付けた物だった。





 ハンドリング
   トルクが増えたN360Sは、坂道でもギヤダウンの回数が格段に減り大分走り易くなったが、パワーが上がった事で他の部分に不満が出てきてしまった。もともと急ハンドルを切ると転倒し易い車として裁判沙汰にもなっていたN360のハンドリング問題が、顕著になってきたのだ。コーナーリングでパワーを掛けながら曲がっていくとサスペンションが腰砕けになってアンダーステアーが大きく出て、曲がらない車になってしまったのである。

 その対策として私が取った方法は、フロントサスペンションにスタビライザー(左右のサスペンションを連結して作動させる装置?)を取り付ける事だった。この頃になると(N360発売から1年)になるとN360によるレースが各地で行われるようになっていて、それに合わせレース用のサスペンションチューニングパーツがショップから発売されていた。

 そのチューニングショップの一つが東京の池袋に在って、私はそのショップを訪れスタビライザーを購入(当時は今のように通販のシステム整っていなかった)したのだが、そのスタビライザーは鉄の棒をへの字に曲げた簡単な物で自分でも作れそうな物だった。

 しかし、そのスタビライザーを取り付けてみると効果は絶大で、N360Sのハンドリングは激変し不安無くコーナーを攻めたれるようになったのである。ただの鉄の丸棒に見えたスタビライザーは、その硬さやバネ定数などレースで培われたノウハウがギッシリ詰まった鉄棒だったのである。このフロントサスにスタビライザーを取り付けハンドリングを安定させる方法は、ホンダでも後の車に採用する事になるのだが、最初から装着していればN360のハンドリングの問題は起きる事は無かったと思う。

 リヤサスペンションのリーフスプリングもラリー用の硬いくてロードクリアランスの大きな物に変更、N360Sのハンドリングはトルクアップしたエンジンにマッチした物となり、私のN360Sはノーマルとは全く違った車に変身したのであった。

 これでN360Sの改造計画は大体完了するのだが、この改造計画が完了するまで三年の月日が流れていた。



 N360から学んだもの・・・
   エンジンもハンドリングも一応使える車になったN360Sは、私が東京に勤めるようになると秋田〜東京間を頻繁に往復する事になる。走行距離が2万キロを越える頃になると、N360Sの外観に錆が目立つようになった。下の写真は岐阜県と長野県の県境に在る乗鞍岳に登る林道(後のスカイライン)を平湯峠から上って奈川渡ダムに下った時(1971年?車歴4年位の時?)のものだが、車体が泥だらけな事もあるが大分やつれているのが見て取れる。





 この黄色のN360Sは、その後私が アルファロメオ1600GTV(中古)を買った事もあって秋田で売られる事になるのだが、その後の消息は残念ながら私は知らない。N360S以降、私は多くの車を所有する事になるが、アルファロメオとカリーナ(雪道では本当に苦労させられた)以外は全てFF車だったのは、N360Sで覚えた雪道での安心感だったと思う。

 N360Sに乗った4年間で、私はFF車の特性や面白さ等多くの事を学んだ。その経験がその後の私のモータリゼーション人生に多大なる影響を与えた事は間違いない。N360は初心者でも遊べるのおもちゃのような車だったが、現代の普通車と変わらない豪華な軽自動車を見るにつけ、時代の違いを痛感する。

 N360S
は私に取って青春時代の良き相棒だったが、今はGSX−R1000 K5 と共に青春してますけど

「 何か
・・・!? 」

                   



TOP ↑

HOMEFUNKY LibraryRyuta’s Museum東北情報北海道情報秋田の林道秋田ヤブ山紀行Mail
Copyright(C) HIRATA  MOTOR CO., LTD.All rights reserved.