●1983〜1984 YUZOチャンバー&ロードレースチャレンジ
YUZO
 
<YUZO> この文字を見て柳沢雄三氏の名前をを思い浮かべる人は、今少ないのではなかろうか。ヤマハのRZ250やRZ350に思い入れのある人だったら一度は聞いた事が有るかもしれないが、メーカーのカタログから250CC2サイクルスポーツバイクが姿を消した後、私も YUZO MRD に電話する事も無くなって柳沢雄三氏の名前を聞く事も無くなっていた。

そして久しぶりに私が柳沢雄三氏の名前を聞く事になったのは、数年前の事になるが雄三氏の訃報であった。私は二度雄三氏にお会いした事があり、私が秋田から持参した日本酒(高清水)で酒を酌み交わした事もあったりもしたので、その訃報に接した時は驚くと共に何とも残念な気持ちになったのを覚えている。

柳沢雄三氏は1970年代片山敬済選手と共にメカニックとしてワールドGPを転戦、ヤマハのTZ250(パラレルツイン)に1気筒プラスした350ccバイクで、片山敬済を日本人初の世界チャンピオンした人物で、彼の2サイクルエンジンに寄せる見識と情熱は話しているだけでヒシヒシと伝わってきたのを今でも鮮明に覚えている。

もう20年も前の話になるが、YUZOと私の関わりについて数回に分けて書いてみようと思っている。

次回はYUZOとの出会いから話を始めたいと思う。

YUZOとの出会い
 
私がYUZOの存在を始めて知ったのは、1983年の春FUNKYのメンバーがSUGOのSLカップロードレース・プロダクション125ccクラスにヤマハRZ125で出場する事になり、そのバイクに装着するチャンバーをYUZOにした事からだった。

レースに出る事になったのは当時FUNKYの会頭をしていた私と同じ年(当時34歳)のメンバーで、彼は以前東京にいた事もあってバイクの情報に詳しくYUZOチャンバーの評判を知っていて装着したのであった。

送られて来たYUZOチャンバーを見た私は、その作りの良さ、形の美しさに驚いてしまったのだが、それ以降数々の市販チャンバーを見てきた私だかYUZOより美しいチャンバーに出会う事は無かったのである。

このFUNKY会頭のレースチャレンジを私は仕事そっちのけでバックアップし、RZ125をレーサーに作り上げた。<レースに出るからには勝ちに行く。>それは私の性分で、会頭を勝たせる為、私は仕事の終わった後夜遅くまでマシンの改造に没頭した。

とは言っても、これまでロードコースを走るレーサー(125ccのプロダクションマシンとは言え)など作った事はなく、雑誌を見ながら見よう見まねの製作だった。

そして最初のレースの日がやって来た。当時はバイクブームのピークの時で、レース前日の土曜日朝にはSUGOのゲート前に長蛇の列が出来ていて、我々も仕事を終えた金曜日の夜秋田を発ってSUGOまで走り、その列に並んでゲートが開くのを待ったものだった。

そして、その初レースの結果は・・・。   つづく

下の写真は RZ125 のレーサー(但し、会頭の物ではない)
YUZOのチャンバーが美しい!

SUGO SLカップ
 
1983年当時、バイクレースブーム(映画 汚れた英雄 1982年12月18日に公開 が上映された後から!?)であったとは言え、東北のSUGOでは参加台数の中心はプロダクション250ccクラスが中心で(スターティンググリットに着けるのは40台、予選落ちの有るのは250ccだけ。)、125クラスは毎回出場台数は9〜13台程度だった。

125ccクラスは、2サイクル単気筒で車体も軽くスピードも大した事はないから転倒してもバイクも人間もダメージが少なくて済む。またレースに掛かる費用も少なくて済む事からレース入門クラスとしては最適なクラスで、SUGOの場合予選落ちも無いからレースを多いに楽しむ事が出来るクラスだったのだ。

我々の初レースは '83 SLカップ第2戦(多分?)で、サポート隊の我々は車の中で一夜を過ごしたが、ライダーは仙台のホテルに宿を取り万全の体制で緒戦に望んだのだが・・・。

SLカップは午前中に予選を行い午後から本戦となるのだが、我が会頭の予選タイムは伸びず練習で出していたタイムに遠く及ばない状態でレースを迎える事になる。スターティンググリットは確か最後列?だったと思う。

当時のスタート方式は押し掛け方式で、「スタッ スタッ スタッ パァーーッ」と言う音と共にバイクは一斉にスタート、我が会頭も無事スタートを切って第一コーナーに消えていった。

当時、プロダクション125のSUGOの最速ラップタイムは1分30秒前後だったが、この1分30秒が長かった。初めての経験だった為、シケインからの上り坂から会頭の姿が見えた時はホッとしたものだった。

結局レース結果は予選結果と大差なく終わってしまたのだが、ピット前を走る我がRZ125の直線のスピードは遅くはなく、メインスタンド前の直線では前のバイクとの間隔を詰めていたから、バイク自体のポテンシャルには大きな問題はなさそうでメカニックの私としては安堵したのだった。

しかしレースを終えた私は、このレース結果に満足出来ずにいた。秋田に帰った私は、心の中のモヤモヤした物を吹っ切る為、1つの決断をする事になる。

それは自ら125ccプロダクションレースに参戦する事であったのだが、その話は次回・・・。


下のコース図は、当時のSUGOのもので、今のコースと違ってコーナーが少なくマシンのパワー差が顕著に出るレイアウトだった。見方を変えたら度胸勝負のコースで、如何にスピードを落とさずコーナーに突っ込めるか勝負だった?

レースへチャレンジ
 
これは性分と言うか何と言うか、結果はともかくレースに出るからには勝利を目指して最大限の努力をし、表彰台の一番高い所を目指して真剣勝負をすると言うのが私のレースに対するスタンスで、楽しむ為にレースに出ると言う人達とは立場を異にする。

楽しむ為にレースに出る人を否定するつもりは全く無いが、私の場合は楽しむ為にレースに出ないと言う事で、サーキット走行を楽しむ為なら走行会で充分と考えている。それはレースが一番を目指して真剣勝負する場と考えているからなのである。

お客様が参加するレースのお手伝いから始まった SUGO SLカップチャレンジ だったのだが、SUGOから帰って来た私の気持ちの中に何かモヤモヤしたものが燻っていた。

そしてその気持ちをスッキリさせる為、自らがSLカップにチャレンジする事を決断するまでそう時間は必要としなかった。しかし、自らレースに出ると言ってもその時の私の年齢は34歳、チャンプを目指すにはチョッと年を食ってしまっていた。

そこで私の弟(当時31歳、充分年寄り)が運転手(雄三氏はライダーをそう呼んでいた)を勤める事になり、7月のSLカップ第3戦に向けて準備が始まった。


下は今では貴重なYUZOのステッカー

スペシャルチャンバー
 
当時のプロダクションクラスのレギュレーションは、エンジン部分で変更を認められているのはチャンバーだけで、他に出来る事はエアークリーナーBOXの取り外すぐらいであった。従ってエンジンパワーはチャンバーで決まると言っても過言ではなく、チャンバーの選択は重要であった。

先のレースでYUZOチャンバーのパフォーマンスを確認していた私は、YUZO MRDのマネジャーの仕事をしていた人物(番頭さんと呼んでいた)に相談して、雄三氏が筑波サーキット向けに製作していたチャンバーの一つを回してもらえる事になったのである。

これは後に駒場のYUZOに行った時に知ったのだが、雄三氏は筑波用に仕様の違うチャンバーを数本作っていて、私は後にまた違う筑波仕様チャンバーを試す事になる。一般にはエアークリーナーBOX付のノーマル仕様向けのチャンバー(YUZOチャンバーはセッティング不要が基本)が販売されていて会頭のチャンバーはそれだったが、見た目では違いは全く分からなかった。

当時の筑波でYUZOチャンバーを装着した RG250γ が速かったのを思い出す。当時YUZOは、RZ250やRZ350のクロスチャンバーがその独自の形や造りの良さ走り易さ等から有名だったのだが、一本一本手作りだった為数が限られ幻のチャンバーと呼ばれていた。(後に大田区京浜島の工場を造ってからは大分出回るようになったが。)

そしてその筑波スペシャルチャンバーは、数週間後番頭さんの肩に担がれて飛行機に乗って秋田にやって来たのである。番頭さんの奥さんの実家が在る山形県鶴岡市でに行く途中、わざわざ秋田空港経由(まだ庄内空港は無かった)で持参してくれたもので、私はその後番頭さんを通じてYUZOとの関わりを深めていったのである。

5月のレース後、FUNKYメンバー内でもレースへの機運が盛り上がり、結局7月の第3戦のスターティンググリットに並んだ12台のバイクの内、4台がFUNKYメンバーのバイクとなっていたのであった。

次回は SLカップ 第3戦のお話を・・・。

下は RZ350R用 YUZO クロスチャンバー
'83 SLカップ第3戦 予選
 
緒戦から次のレースまで時間的には約2ヶ月の時間が有ったのだが、マシンを新たに3台製作し運転手の練習時間を取らなければいけなかったから、練習時間を多く取る為にもマシン製作は急がなければならなかった。

通常の仕事の合間や仕事が終わった後にマシンを製作したのだが、1台お手本が有ったとはいえレースでの問題点や新たな試みをしたりした為手探りの部分が多く時間的に結構大変だった記憶があるが、一つの目標に向かって集中する事はそれはそれで私にとって至福の時間であったのである。

そして新たに参加するマシンのチャンバー選択が問題となった。弟のマシンはYUZOで決まっていたが、他の2人メンバーは雑誌等の情報を基に違うチャンバーを選択する。1台はルーニーだったと記憶しているが、もう一台の名前が何だったか思い出せない。

その名前の思い出せないチャンバーは後で雄三氏がYUZOチャンバーのコピーチャンバーだと言っていた様な記憶がある。何でも作っているところを見学させてくれと頼まれて見せたら、後にRZ125用のチャンバーがそこから発売されたらしいのだ。確かに形はYUZOチャンバーに酷似していたと記憶している。コピー商品が出るという事は本物の証なのだろう、雄三氏は気にしていない様子だった。

そんなこんなで作り上げたマシンが前に写真を載せた青いRZ125(弟のマシン)なのだが、このバイクは徹底的な軽量化とフリクションロスの低減を図った。パワーの無い125ccでは軽量化が重要な為フレームの不必要なステー類はサイドスタンドの取り付けも含め全て切り落とした。(これは後に公道用に戻す時大変苦労する事になる。)

弟のマシンには取り付けステーをアルミ板で自作してTZ用のタコメーターを取り付けたりして他のマシンと違う所もあったが、基本的に4台同じ仕様に作り上げた。違うのはチャンバーと運転手の体重だけだから、チャンバー +  体重 の違いがトップスピードに現れる筈でその結果に私は大いに興味があった。

そして下がSLカップ第3戦の予選の結果である。
FUNKYメンバーは3位、7位、9位、10位に入っている。
YUZOチャンバーが上位に来ているが、これはチャンバーの違と言うよりも運転手の腕の違いに因るところが大きいと思われる。

この予選は雨で路面が濡れており、ウエット路面に慣れていないメンバーは思い通りのタイムが出せていなかった事を付け加えておきます。

Slカップ第3戦 決勝
 
走り慣れない雨の予選の中トップから1秒38遅れの3番手のタイムに着けた弟は、初レースとしては出来過ぎのスターティンググリット最前列に並び、他のメンバーは会頭が7番手で2列目、他の二人は3列目に並ぶ事になった。

FUNKYメンバーの中で前2台はYUZOチャンバー装着車でYUZOチャンバーのパフォーマンスが勝った格好だったが、殆どが運転手の腕の差であったと思われる。

昼過ぎから行われた決勝は雨が上がり天候は曇りとなっていたが、コースコンディションはドライとはいがずハーフウェットの状態で、これがこの決勝レースに大きく影響する事になる。

予選結果を見ると1位と2位の差は接近しており、特に2番手の永井氏は地元仙台のベテランライダーで彼がこのレースをコントールすると予想されたのだが、決勝レースはドラマティックな展開をみせる事になるのである。

12時43分、プロダクション125ccクラス決勝(12周)レースのスタートが切られた。レースは予想通りポールポジションの池戸選手と永井選手の激しいトップ争いで進んでいく。3番手には弟が着けるが二人の前に出るだけのパフォーマンスは無く、裏のコーナーで離された分をシケンからの上りで追い着く展開でレースは進んで行く。

予選で義務周回数不足の為最後尾からのスタートとなったカワサキAR125に乗る矢代選手の持ちタイムは先頭グループと大差なく、周回を重ねるごとに順位を上げトップ集団の後ろまで来ていた時、トップ集団でアクシデントが起きたのである。

ストップウォッチを見ながら先頭が現れるのが遅いと感じたその周回、最初に坂を上って姿を見せたのはAR125の矢代選手でその後ろに弟のRZ125が着いて戻って来た。永井選手の姿は見えず、池戸選手も大きく遅れてグランドスタンド前を通過して行く。

トップを走っていた二台が絡んでコースアウトした模様で永井氏はそのままリタイヤ、池戸選手はリタイヤは免れたが大きく遅れてしまったようだ。弟はその影響を受けスピードが落ちた所をAR125の矢代選手に抜かれ2番手になってしまったようである。

弟はトップのAR125に追い着こうとしたのだが、コースコンディションもあり無理をしないでそのまま2位のポジションで初レースを終える事を選択、無事12周を走り切って2位でチェッカーフラッグを受けたのであった。

その時の写真が下の写真で、初レースで2位でゴール出来た彼は嬉しかったのだろう、ガッツポーズをしてチャッカーを受けている。

レース結果は下の通りで、FUNKYメンバーは2位、4位、7位、8位に入った。完走者の半数がFUNKYメンバーという何とも内輪のレースの様になってしまったのだが、このレースが波乱万丈の '83 SLカップ ロードレースシリーズ プロダクション125ccクラス 年間チャンピオン への第一歩となったのである。

(このレースで永井氏がリタイヤした事がチャンプの行方に大きく影響する事になる。)

レース結果を書いた紙がわら半紙にガリ版刷りなところに時代を感じてしまう。今はプリンターで印刷されているのかな?

'83 SLカップ第4戦 予選
 
SLカップの第4戦は、全日本ロードレース選手権 第8戦 SUGO大会 と併催で開催され、プロダクション125ccクラスは土曜日の朝に予選、夕方の決勝レースといういつもと違うスケジュールで行われた。

全日本と併催と言う事でピットには全日本を走るワークスチームのマシンやライダーが溢れていて、私は我々のレースも大事だったが普段見る事が出来ないワークスマシンを見にピット内を行ったり来たりしていた記憶がある。

今回FUNKYからは弟と前回4位に入った平川君(秋大生)の二人がレースにエントリーしたのだが、本当はもう一人伊藤君も参加すべく準備をしていた。彼も平川君と同じ秋大生だったのだが、大会に向けSUGOで練習中に転倒鎖骨を骨折してしまい今大会はサポート役に回っていた。

全日本併催と言う事もあったのだろう、この大会には関東方面からのエントリーも多く有ってレベルが高いレースが予想された。この '83 SLカップ プロダクション125ccクラス でこれまでの優勝していたのは、前回のレースにリタイヤした永井選手(第1戦 仙台)と会頭が出場した第2戦優勝の野末選手(基本マスターズ中部、神奈川?)、そして第3戦優勝の矢代選手の3名だったが、実力から言って永井選手と野末選手がチャンプの座に最も近いところにいた。

そして今回の第4戦には、前回エントリーの無かった野末選手がエントリーして来て激しいトップ争いが予想されたのである。仙台の永井選手もそうだったと思うが、私としてはSUGOのSLカップレースで関東の人間にチャンピンの座を持っていかれるのは地元東北の人間としてどうしても阻止した気持ちがあって、出来れば地元からチャンプが出て欲しいと思っていた。我々にもチャンプの可能性は残っていた訳で、その意味でもこの第4戦の結果が重要であったのである。

'83全日本ロードレース選手権 第8戦 SUGO大会 決勝
 
雨の中、決勝レースは全日本選手権と言う事でいつものレースより4周多い16周でスタートする。雨のレースではやはりレース経験豊富なライダーが有利で、レース2戦目の弟はジリジリと先頭から送れていく。反対にレース経験豊富な地元の永井選手は6番手スタートから徐々に追い上げを開始、先頭の野末選手を猛追して2番手まで上がったのだが、前に出るまでは至らずそのまま2位でフィニッシュする事になる。

弟も最終的にトップから39秒遅れの5位でフィニッシュ、貴重な6ポイントを獲得してレースを終えたのであった。晴れていればもう少し良いレースが出来たと思われたが、これもレース9月25日に行われる最終戦に向けて気持ちを切り替え、我々は次の日の全日本ロードレース選手権を見ずにSUGOを後にしたのである。

ここで第4戦を終えた時点でプロダクション125ccクラスのポイントランキングをおさらいしておこう。

1位 30ポイント 野末伸行 23才(チーム基本マスターズ中部)
2位 27ポイント 永井 護 30才(仙台スーパースポーツ)
3位 18ポイント 平田 茂 31才(チーム ヒラタ)
4位 11ポイント 平川裕治 23才(FUNKYメンバー)

1位の獲得ポイント15ポイントを加えても11ポイントの平川選手は1位野末選手の30ポイントを上回る事は出来ず、18ポイントの平田茂にはチャンピオンになれる可能性は残されているものの、チャンピオン争いは実質的には30ポイントの野末選手と27ポイントの永井選手の争いになるものと思われた。

ところが神様は我々に昨年のMotoGP最終戦でニッキー・ヘイデンをチャンピオンにした時の様なドラマを最終戦に用意してくれていたのである。

下は決勝のリザルト

'83 SLカップ第5戦(最終戦)予選
 
最終戦を前にして我々にはまだ僅かではあったが年間チャンピオンになれる可能性が残っていて、最終戦に向けて弟は毎週の様にSUGOに通い練習を積んでいた。レース初心者が速くなる方法は唯一つ練習しかない訳で、弟は地元仙台の人間より多く練習していたのではないだろうか。

その頃になると我々のRZ125のセッティングも固まってきていて、シケインを前のバイクに着いて脱出できれば坂を上ってメインスタンド前のゴールラインを切るまでには前に出る事が出来るまでになっていた。

それは先日の 2007 MotoGP 第1戦でのDUCATIのケーシー・ストーナーとYAMAHAのロッシとの戦いでも見られたが、DUCATIがストーナーに与えたアドバンテージと同じく最終コーナーを後ろで回っても最終的には勝てると言う事であった。

我がRZ125と他のバイクとのパワー差はライダーの中でも評判になって、レース後の車検でエンジンをバラした時には多くの人間が我々のRZを覗き込んでいた。しかし、パワー差の大部分はYUZOチャンバーがもたらしたもので、レギュレーション通りシリンダーやヘッドには全く手を付けていなかったから見ても何も得るものは無かったのである。

そして最終戦の予選がドライコンディションの中で始まった。そしてそこである事実が判明する。ポイントランキング2位の永井選手が怪我でレースに出場出来なくなり、最終レースにエントリーしていなかったのである。

それは我々に取ってはラッキーな事ではあったのだが、トップ争いをしている一角が崩れたとしてもランキング1位の野末選手はチャンピオンを奪取すべくエントリーしていて、我々の置かれた状況に変わりは無かった。

今回、FUNKYからは鎖骨骨折の怪我から癒えた伊藤君がエントリーしていて、彼は学生生活最初で最後のレースに臨んでいた。そして予選の結果だが、弟はポールポジションの野末選手に0.6秒と迫る自己ベストでセカンドポジションを確保する事が出来た。レース3戦目でここまでこれたのは今までの練習成果の賜物で、彼の集中力には感心する。

伊藤君も果敢な走りで予選7位に入りグリット2列目からスタートする事になったのだが、彼もまた神様からのプレゼントを決勝レースで受け取る事になるのである。

次回はドラマティックな展開をみせた '83 SLカップ第5戦(最終戦)決勝 の模様を・・・

'83 SLカップ第5戦(最終戦)決勝
 
最終戦の決勝に並んだマシンは10台。3戦目にして初めてドライコンディションとなったこのレース、予選タイムから言ってポールの野末選手と弟のRZ125の一騎打ちになる事は明白で、スタートさえ失敗しなければ勝てるチャンスは十分有ると思われた。

そして12ラップのレースのスタートが切られた。現在のエンジンが掛かった状態からクラッチを繋いでスタートする方式と違い、当時のスタートは押しかけ方式でエンジンが掛からなかったりバイクに跨る時に転倒したりする事があり、スタート時は今以上に緊張したものだった。

スタートは大きな混乱も無く、全車第1コーナーに消えて行く。1ラップ目先頭でグランドスタンド前に現れた野末選手を我がRZ125がパスして先頭で第1コーナーに消えて行き、私の予定通りの展開でレースは進行していく。

そんな展開の周回が数周続いたのだが、我がRZ125がミスをしたようで野末選手に少し遅れて戻ってきてしまった。その差は広がりはしなかったが縮まりもしない状態で周回は進む。

レースも終盤に差し掛かった時、黒旗を持ったスタッフが出て来て先頭を走る野末選手に向かって黒旗(ピットインを指示する旗)を示し始めたではないか。しかし野末選手は一向にピットに入って来る気配を見せず、そのまま走り続けた。

何故、野末選手に黒旗が出されたのかハッキリした記憶が無いが、バイクから何かのパーツが脱落しそうになっていた為黒旗が出された様に思う。数ラップしてようやく黒旗に気付いた野末選手はピットに入ってきたのだが、その間に弟のRZ125はトップでチェッカーフラッグを受ける事になったのであった。

それはあまりにも劇的な幕切れで、ピットに居たスタッフ全員飛び上がって喜んだのであった。トップを走っていた野末選手が黒旗でピットインを余儀なくされた結果とは言えそれもレース、我がRZ125は3戦目で初優勝を飾ると同時に'83 SLカップ ロードレースシリーズ プロダクション125ccクラス 年間チャンピオン の座も獲得する事になったのである。

そして4番目にチャッカーを受けた伊藤君も3着のライダーがフライングで20秒のペナルティが課せられた為3位表彰台をゲットする事になり、レース後の表彰台には1位と3位に2人のFUNKYメンバーが立つ事になったのである。

下が決勝リザルト

●年間チャンピオン獲得!
 
私は最終戦の初勝利も嬉しかったが、'83 SLカップ ロードレースシリーズ プロダクション125ccクラス 年間チャンピオン になれた事が本当に嬉しかった。

前にも書いたが、このレースは我々が優勝するだけでは年間チャンピオンになる事は出来ず、優勝し尚且つ野末選手のポイントが2ポイント以下でなければチャンピオンにはなれない状況下でのレースだった。それが予想だにしなかった野末選手に出された黒旗によって我々が年間チャンピオンの座に着く事が出来たのだから、何ともドラマティックな結末であったのである。

初めてロードレースに参戦した我々が、全5戦で行われるシリーズ戦の後半3戦にエントリーして年間チャンピオンを獲得できた事は奇跡と言ってよいと思う。それはローカルなシリーズ戦のマイナーなクラスの年間チャンピオンであったとしても、目標に向かって各人それぞれの力を集中し目標を達成出来た事は、言葉では言い尽くせない喜びであった。

それは弟のレースに対する取り組み方やYUZOチャンバーを含めたRZ125レーサーのパフォーマンス、そして幸運の女神の後押しなどが有っての年間チャンピオンではあったのだが、FUNKYと言う仲間と共に一時期レースに没頭する時間を共有できた事が私には大きな財産となったのである。


その後チャンピオンになったご褒美でもなかったが、SUGOのレースは終了したが筑波ではまだレースが残っていて、私と弟は筑波のレースに遠征する事を計画し実行に移す事になる。そして私は、柳沢雄三氏と始めての対面を果たす事になるのである。

筑波遠征
 
残念ながら11月上旬に行われた筑波のレースの記録は残っておらず詳しい内容はお伝え出来ないが、秋田の田舎者が関東のレースに触れられた貴重な体験であった。

仕事を終えた弟と私は、ハイエースにRZ125を積み込んで秋田をPM8:00に出発、国道と東北道を使って筑波を目指した。普段は経費節約のため高速道は使う事は無いのだが、今回は遠い筑波という事で次の日のコンディションも考えプチ贅沢をしてしまった。

しかし高速を下りてから筑波サーキットまでの道が分かりづらく、サーキットに着いたのは朝の4時になってしまっていた。私のイメージとしては筑波サーキットまでの道は広い立派な道で行けるものと考えていたら、筑波サーキットは畑の広がる関東平野の中にポツンと建っており、周辺の道路は街灯もない真っ暗な田舎道で迷ってしまったのである。

サーキット前に着いてみるとゲート前にはSUGOにも増してトランポの長蛇の列が出来ており、レース人口の多さを感じる。我々も列の後ろに着いてゲートの開くのを待つ事にした。

実は今回の筑波ではFUNKYメンバーの弟さん(埼玉県在住、筑波でレースをしていた方)と一緒になる事になっていてたのだが、今と違って携帯電話の無い時代だったから会えるかどうか大変心配していた。結局サーキットの中で会う事は出来たのだが、SUGOと違い筑波サーキットは小じんまりとしとしていたのが我々に幸いしたのであった。

この日は30分2回の練習時間しか取れず、練習と言うよりはただサーキットをツーリングしただけで終わってしまったのだが、筑波とSUGOの違いは敷地の狭さと人の多さだけで、サーキットの雰囲気は大差無く田舎者は一安心したのであった。

しかし、サーキットレイアウトはSUGOと大きく違っていた。筑波は直線が短くコーナーは回り込んでおり一周の距離も短く、高速サーキットのSUGOとは全く正反対のコースであった。SUGOしか走って事の無い弟に取っては全く一からのスタートで、ここを数日走ったところで勝負になるとは思われなかった。スプロケットのファイナルレシオを合わせたりしているうちに2回の走行時間は終わってしまう。

この後レース前日の練習日と予選、決勝と筑波サーキットを走る事になるのだが、その合間をぬって目黒区駒場に在ったYUZO MRDCの事務所兼工場?にお邪魔し柳沢雄三氏に会う事になるのである。
●YUZO MRDC訪問
 
初日の走行後一晩FUNKYメンバーの実家にお世話になった我々は、次の日SUGOでチャンピオンになった報告とお礼を兼ねて東京駒場に在ったYUZO MRDCを訪れた。

YUZO MRDCは渋谷に程近い淡路通りに面していたのだが、外観は二間程の間口にガラス戸が嵌っているだけでチョッと見、普通の商店の様で見つけるのに苦労してしまった。ガラス戸を開けて中に入るとそこはチャンバーを作る工場(8畳位?の土間)になっており、その奥が事務所(6畳程の和室)となっていた。

事務所には番頭さんと雄三さんがいらっしゃって我々を歓迎してくれたのだが、ちょうど夕方で一杯やる事になり酒の肴にオイルサーディン(鰯のオリーブ油漬け、ヨーロッパで食べられている)の缶詰を買って来て出してくれたのを覚えている。おそらくそれは雄三氏がヨーロッパ転戦中に食べた酒の肴であった思われ、それは私のオイルサーディンとの初めての出会いとなったのである。

私がその事務所で一番驚いたのは、天井からブラ下がった電灯配線から電源を取ったコタツの上に載ったノートパソコン(エプソン製?)で、周りの雰囲気と時代の最先端をいく道具(ウィンドウズ95が出る8年も前の話)とのミスマッチが強く印象に残っている。

外見とか人からどう見られるとかでなく、最先端の技術は積極的に取り入れ仕事に生かしている姿勢に私は大変感銘を受けたものだった。そしてそのパソコンを退かして酌み交わした日本酒の味は格別(と言って車の運転があったので嘗めた程度)であったのである。

雄三氏は日本酒大好き人間であったようで秋田の高清水は旨いと絶賛しているのを知った私は後日再び駒場を訪れた時高清水を持参したのだが、一升瓶の殆どを雄三氏一人で開けてしまったと記憶している。

我々は明日の予定がある為長居は出来ず早目に駒場を後にしたのだが、雄三氏はわざわざトランポの所まで見送りに来てくれた。そして窓から我がRZ125を覗き込んでいた。多分、雄三氏は我々を送りに来たと言うよりも自分の作ったチャンバーでチャンピオンマシンになったRZ125がどんなマシンなのか興味があったのだろうと思う。

日が落ちて暗がりの中であった為よく見えていなかったと思われ、私としてジックリマシンを見てもらえば良かったのだが、その時の私はそこまで頭が回らなかった。世界GPメカニックから自分の製作したマシンを見てもらってアドバイスを頂くべきだったと後で思ったのだが、残念な事をしたと私は今でも後悔している。

東京で1泊した我々は翌朝、日の出前の東京を発ち筑波サーキットに向かったのであった。
●筑波のレース
 
レース前日の練習を走ってタイムを計ったら1分18秒前後で、速いグループと比べると4〜5秒程度遅い様であった。初めて筑波を走ってトップグループで走れるとは思っていなかったが、2〜3秒落ち位では走れるのではないかと考えていたが甘かったようだ。

結局、予選では少しタイムが上がって16秒台には入ったが予選の順位は10番台であったと思う。この辺は記録が残っていないのでハッキリしないが、決勝レースも1桁台の順位ではチェッカーを受けなかった様な気がする。

筑波遠征は大した結果は残せなかったが、柳沢雄三氏に会う事も出来たし筑波のレースも垣間見る事が出来た我々は、思い残す事無く筑波を後にしたのであった。

これで1983年の我々のレース活動は全て終了したのだが、そもそも我々がレースに参戦したたキッカケはFUNKYメンバーのレース参戦であり、私は当初レースをするつもりは無かった。

それが行き掛かりと言うか性格と言うか、途中からレースを始めてしまい結果として年間チャンピオンを獲得してしまった訳で、私はこれでプロダクション125ccクラスのレースは終わりにするつもりでいたのだが、一つスッキリしない事が有ってそれが心に引っ掛かっていた。

それは一度表彰台の一番高い所に立って年間チャンピオンになったとは言え、スッキリとした形で優勝していなかった事であった。トップを走るライダーが黒旗でピットインしての優勝は、優勝には違いなかったが何か気持ちがスッキリしなかった。

結局我々は翌年の '84 SUGO SLカップ プロダクション125ccクラス 第1戦にエントリーする事になるのである。
'84 SUGO SLカップ 第1戦
 
この年の第1戦は3月25日というまだ肌寒い時期に行われた。昨年のチャンピオンとして我々のRZ125S(モデルチェンジした新型)にはゼッケンナンバー1が張られていた。それは84年度からバイクに付けるゼッケンナンバーが前年のランキングナンバーになったからで、弟はナンバー1を付けてレースを戦う事になったのである。

我々のRZ125に張られたゼッケンナンバーには面白い話があって、SUGOを走った全4レースで我々のRZ125はゼッケンナンバーの順位でレースを終えていて、NO,2の時は2位、NO,5の時は5位と全て順位はゼッケンナンバーと一致していた。この法則でいくと84年の我々のレースは全て優勝する事になるのだが・・・。

我々は真のチャンピオンを目指し予選に臨んだのだが、仙台の名門チーム 仙台スーパースポーツ の古川選手(永井選手の後輩)にポールポジションを奪われてしまった。古川選手の予選タイムは1分30秒を切った昨年の予選タイムより0.5秒ほど速いタイムだったが、我々も練習では30秒を切っていたからレースでは充分勝機はあると考えていた。

そして決勝レースは弟と古川選手の一騎打ちのレースとなったのだが、2ラップ目のメインスタンド前にトップで現れた我がRZ125Sは、その後チャンプの走りを見せ一度もトップの座を明け渡す事無く10周のレースを走り切り、2位の古川選手に約1秒の差を付けてチェカーを受けたのであった。

それは私に取って納得がいくレースでもうこのクラスで思い残す事は無く、我々はこのレースを最後にプロダクション125ccクラスから卒業する事にしたのである。

弟はその後ヤマハFZ400Rに乗ってF3にチャレンジする事になるのだが、私は仕事の関係でサーキットに出向く機会は少なくなっていった。

1年にも満たないレース参戦だったが、今思えば私に取って至福の時間を過ごした良い経験だったように思う。明け方までのマシン製作やトランポの中で過ごした夜、その一つ一つが今楽しい思い出として残っている。

そしてその楽しい思い出もYUZOチャンバーが無ければ作れなかった訳で、柳沢雄三氏には本当に感謝している。また雄三氏の人柄や考え方に触れる機会を持てた事も私の大きな財産となっている。永眠された柳沢雄三氏のご冥福をお祈りするものである。



                        おわり


FUNKY レポート

TOP >

HOMEFUNKY LibraryRyuta’s Museum東北情報北海道情報秋田の林道秋田ヤブ山紀行Mail
Copyright(C) HIRATA  MOTOR CO., LTD.All rights reserved.