Second Place 準優勝

※この <Second Place 準優勝 は、BBS Ryutaの独り言 に 2007年2月に連載したものを再編集したものです。                              by 平田隆太郎

   私の60数年の人生の中で賞状という物を頂いた経験は多くはないが、何故か頂いた賞状の多くが準優勝(小学校の運動会の物を含めて)の物が多い。

 小学校6年生の時(1960年/昭和35年)に出場した全県(秋田県)の模型飛行機大会(ゴム紐を巻いて動力とした木と竹ヒゴと紙で作ったプロペラ機で滞空時間を競った)に参加した時も私は準優勝だった。優勝は同じ学校の同級生で、彼は秋田県代表で全国大会に出場する為東京に行った(当時普通の小学生が東京に行く事など殆ど無かった)のを覚えている。

 そしてそれから30年後の1990年、私はまた準優勝の賞状を頂く事になるたのだが、その話を少し書いてみようと思う。私が参加した大会は、YAMAHAのスタートーナメント全国大会で、ヤマハ発動機が販売店の整備技術や接客力のレベルアップを目指し、全国の販売店からサービスマンを集めて行ったメカニックコンテストだった。

 全国各地区で予選会があって、私は仙台で行われた東北地区大会でトップになり東北6県の代表として静岡県のつま恋(音楽コンサート等で有名)で行われた全国大会に臨んだ。

 大会の競技内容は、ペーパーテスト、接客、実技の三つで行われ、その総合得点で争われたのだが、大会がまだ2回目であった事やYAMAHAの内輪の大会だった事もあり、大会のやり方に私は多少の疑問を感じた大会だった。

 しかしサービスマン(メカニック)を対象としたこの大会は、17年経った現在世界規模の大会に発展し、世界各地からYAMAHAのサービスマンを集めて世界大会が開催されている。



’90ヤマハスタートーナメント全国大会    1990年11月8日  於 つま恋
 


 YAMAHAのスタートーナメント全国大会に集まったサービスマンは30人位?いたが、私には優勝を目指すとかそんな気持ちは毛頭無く、東北の代表として恥ずかしくない成績を納めれば良い位の気持ちだった。

 大会はまず筆記試験から始まった。試験の前に関東地区代表の皆さんが認証整備工場の広さは幾らだとか何だとか話しているのが聞こえてきていたのだが、試験問題の中にそれに関する問題が出ているを発見して私は驚いた。先ほどの話と試験問題がどうリンクするのか私には分からなかったが、関東地区代表の試験対策は万全であった事だけは確かのようだった。

 筆記試験の後はサービスフロントでの接客対応を見る試験で、一人づつ実際にお客様に対応するスチエーションで試験は行われた。至ってあがり症の私は、自分で何を話したか覚えていないほど緊張した事だけは覚えている。

 最後は実技試験で、エンジンが始動しないスクーター(アクシス50)の修理と点検整備記録簿をつけるシュミレーションだった。このシュミレーションと言うところがみそで、私は見事にそれに嵌ってしまうのである。

 エンジンが掛からない原因がエンジンの排気口とマフラーの間に穴を塞ぐ形で入れられた板である事を私はそう時間が掛からずに発見し、点検整備を終えた時点で試験時間は大分余っていた。

 すると私の作業を見ていた試験官が、「良いですか? もう一回点検してみてください。」 などと言ってくる。

 私は点検記録簿に点検漏れが無いかを確認したのだが漏れは無く、私が試験を終えようとすると試験官はアクシスの周りを回って、「もう一度点検したら?」 みたいな事を言ってくる。

 うるさい試験官だなと思った私だったが、そのまま試験時間は終了する事になる。後で試験のチェックポイントの一つが、ナンバープレートに張られた自賠責保険ステッカーの期限切れに有った事を知った私は、試験官のご好意?(試験官としては問題が有るとは思うが・・・)に報いられなかった事を深く後悔したのだが遅かった。

 試験官は私にステッカーの期限切れを気付かせたくてスクーターの周りを回っていたと思われるのだが、私はそんな事だったとは夢にも思っていなかったのである。

 全ての試験が終了し入賞者の表彰となったのだが、筆記試験も接客試験にも自身が無かった (実技試験には自信が有った) 私は、緊張する事も無く表彰式を見ていた。確か6位ぐらいから順番に発表になって4位、3位と呼ばれて壇上に上がって行く。

 すると準優勝のところで私の名前が呼ばれたではないか。私は慌てて壇上に上がったのだが、「どうせなら優勝が良かったな・・・」 とその時の私は思ってしまった。しかし、それは私の定位置でもあるわけで、私らしいポジションではあった。

 私の後に呼ばれた優勝者はやはりと言うか何と言うか、関東地区代表の一人で2年連続関東地区代表の優勝であった。

 結果には期待していなかったにも関わらず、自分が準優勝に終わった事が後になって悔しかった。何故親切?な試験官が発する信号に気付かなかったのかと後悔する事頻りだった。

 しかし自賠責の期限切れに気付いていたとしても優勝出来たかどうかは分からないのだが、人間物が絡むと欲深くなるものなのです。因みに、優勝商品は当時放送が始まったばかりのBSチューナーとBSアンテナのセット(7万円相当?)で、私はこれが欲しかった。

 準優勝の商品はミノルタの1眼レフカメラ(28〜300mmのズームレンズ付)だったのだが、このカメラは2001年に私がデジカメを買うまでFUNKYや山の記録を残すのに大活躍したから、結果的には準優勝で良かったのだが・・・。


 大会を終えてホテルの部屋に戻った私は、大会関係者に手紙を書いた。大会に参加しての感想を書いたのだが、試験内容はともかくとして試験の点数を公表しないで順位を発表するのは如何なものかと参加した者として疑問を呈した。

 客観性や公平性が保たれた状態で順位を発表しなければ、大会そのものが疑問視され参加者のモチベーションが上がらないと書いたのだが、後に貴重なご意見を参考にして今後の大会に生かしていきたいとYAMAHAから返事をもらったと記憶する。

 あれから十数年経った現在、YAMAHAは全世界からサービスマンを集めて整備技術を競う世界大会を開催している。私が準優勝した大会と現在の世界大会を比べると規模も違うし、実技試験のバイクがスクーターからスーパースポーツ系の大型バイクになったりして整備レベルは高くなっているようだが、ペーパーテストや接客の審査も有るようなので基本的なスタイルは変わっていないようである。

 私としてはあの緊張した雰囲気は嫌いではないから、大会参加当時ぐらい若かったら(当時41歳だったからサービスマンとしては年寄り?)もう一度出てみたい気もしている。

 あの大会から20年以上経ったが、私はまだ現役で整備の仕事をしている。私の年齢であれば従業員に整備を任せ現場から退いてもおかしくはないのだが、従業員を雇うだけの経営手腕が無い事もあり、整備やチューニングの仕事が好きな事もあって、私は今も整備の仕事をしている。

 バイクの修理は同じようなものが多い(消耗品の交換は別)と思われるかもしれないが、これが千差万別で経験した事の無い故障も結構多い。長年修理をしているとそれだけ修理経験は増えるのだが、バイクも人と同じで使われ方や置かれた環境で故障の内容が違ってくるから、何年やっていても経験した事の無い故障に結構出くわす。日々此れ勉強なのである。


 私がバイク整備の仕事をする様になって40年以上経つが、バイクは時代と共に変わって来た。整備技術もそれに伴い新しいもが加わって来たが、整備の基本はベースとなる基本的な原理をマスターしている事が大切だ。

 ガソリンのエレルギーをどのように取り出して駆動輪を回しているのかを知らないで、バイクの故障診断は難しい。原理を知っているかいないかで、サービスマンのレベルが分かると言っていいと思う。そんな意味でもメカニックコンテストに参加する事は色々と勉強になり、若いメカニックの皆さんには積極的に参加して世界チャンピオンを目指ししてもらいたいと思います。


 私がYAMAHAのスタートーナメント全国大会に参加して得た事は、今でも仕事に生かされている。それはナンバープレートに張られた自賠責保険のステッカー期限を確認する事で、ステッカーを見る度に私は大会の事を思い出すのである。



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